フィレンツェの街が最も芸術的に栄えたのは、15世紀。その後半は、誰でも名を知るミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチが生きた時代で盛期ルネサンスと呼ばれます。
少し遡って15世紀前半は、今でも街のシンボルとして威風堂々とそびえているクーポラの設計者ブルネレスキや、ギベルティ(洗礼堂『天国の門』ほか)、ドナテッロ(ダヴィデ、マグダラのマリアほか)やマザッチョ(ブランカッチ礼拝堂ほか)などが活躍しました。
さらにその前の時代、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)の設計を手掛けたのが、13世紀後半に活躍したアルノルフォ・ディ・カンビオという人です。
そして実はドゥオモだけでなく、今もフィレンツェに残る同時代のたくさんの建築物に関わっていました。また、同時代の有名人にはジョット(ジョットの鐘楼、荘厳の聖母ほか)やダンテ(神曲、新生ほか)がいます。
今日は、このアルノルフォ・ディ・カンビオの生涯を紹介します。
目次
アルノルフォ・ディ・カンビオの人生
出生記録は不詳。父の名は「カンビオ」で公証人、母の名は「ペルフェッタ」とされている
出生
この時代、よほど有力な貴族の家などでなければ、正確な出生記録が残っていることはまれです。彼も同様で、実は記録がありません。生まれ年については、後に出て来る仕事の記録から逆算して、恐らくこの頃だろうと推定されています。
若い時代
アルノルフォ・ディ・カンビオの携わった仕事で記録に残るもののうち、最も古いものは1267年。シエナのドゥオモで、師匠のニコラ・ピサーノの手がけた講壇の一部がアルノルフォの手になるとされています。この時、彼は20歳代だったとされています。
その後、独立して初めての作品として記録が残るのは1277年~1280年頃のペルージャの広場の噴水。残念ながら実物は20年ほどで取り壊され、現存していません。いくつか残った部分がペルージャの国立美術館に保存されています。
この少し前に、シチリア王カルロ1世(シャルル・ダンジュー)のもとで仕えることになったようです。
このペルージャでの仕事に際しては、当局がカルロ1世に対してアルノルフォの身を借り受けたい旨の申請をして許可されたので、契約に至ったようです。
ローマ時代
1277年頃からローマに滞在し、たくさんの教会やローマ教皇のために美術品を残しました。
フィレンツェ時代
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
フィレンツェでは、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(旧サンタ・レパラータ教会)の改築計画に携わります。もともとこの場所にあったサンタ・レパラータ教会は、ちょっと小さくなってしまったのです。
この時にフィレンツェの人口は10万人に達していたのよ~
アルノルフォの作った計画では、サンタ・レパラータ教会の約2倍の面積を持つ教会になる予定でした。
ただ結果的にはシエナなど周辺の都市との関係もあって、現在の大聖堂はサンタ・レパラータ教会の約3倍の大きさになっています。
1296年9月8日、聖母マリア生誕の日に新生サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の最初の石が置かれました。
残念ながらアルノルフォ自身はその完成を見届けることなく(実際、完成したのは約130年後のこと)死去しました。
フィレンツェでの功績
彼が関わったとされる建築物は、ドゥオモ(1296~)の他、オルサンミケーレ教会の前身(1290~)やサンタ・クローチェ教会(1294~)、ヴェッキオ宮殿(1299~)など、街の中でもひときわ存在感をはなっているものばかりです。