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16世紀の偉大な美術史家、ジョルジョ・ヴァザーリ。トスカーナ大公も絶大な信頼を置いた『総合芸術家』の人生とは?

フィレンツェの街を観光すると、何度か耳にすることになるジョルジョ・ヴァザーリという芸術家がいます。


16世紀のメディチ家当主、トスカーナ大公コジモ1世のもとで偉大な業績を残した人物で、その活動範囲は絵画から建築、著述、そして様々なプロジェクトの総合プロデューサーまで、非常に幅広いものでした。
彼の作品の一例を挙げると、フィレンツェの街のシンボルであるヴェッキオ橋の上を通る『ヴァザーリの回廊』やウフィツィ美術館の建築、ヴェッキオ宮殿のフレスコ画装飾、そしてドゥオモのクーポラのフレスコ画装飾などなど…

旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

『ヴァザーリの回廊』って聞いたことがある!

さて、そんな多彩な才能を持つジョルジョ・ヴァザーリ、いったいどんな人生を送った人だったのでしょうか?

ヴァザーリの生い立ち~若い時代

-自画像?, ジョルジョ・ヴァザーリまたはヤコポ・ズッキ, 板に油彩, 1571-74, ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

ジョルジョ・ヴァザーリの生まれはフィレンツェの南約70kmほどのところにある町アレッツォで、商人の子供として生まれました。
幼い頃は故郷のアレッツォにて、フランス人ステンドグラス作家の工房で美術を、また別の師匠のもとで人文科学の初歩を学びました。


まだ若い頃にフィレンツェにやってきて、メディチ一族の子孫の後見人をしていた枢機卿のもとで勉強していたことが縁で、メディチ家の宮廷に出入りするようになります。
この時代に、アンドレア・デル・サルトやバッチョ・バンディネッリと接点があったようです。

20歳ぐらいのときにローマへ旅をして、古いモニュメントの他、ラファエロやミケランジェロの作品を研究しました。
「芸術家列伝」の中での彼に関する批評は、ヴァザーリはミケランジェロをとても尊敬していて(実際に二人は出会い、話もしていました)、ベタボメという言葉がぴったりなほど、大絶賛しています。

ちなみに、サンタ・クローチェ教会にあるミケランジェロのお墓はヴァザーリの作品です。

-ミケランジェロ・ブォナロッティの墓碑

26歳の時、父が亡くなったため、母や弟妹の生活のために故郷アレッツォに帰ることになります。

この時代は地元教会の祭壇を作ったりしていたようですが、この頃、ローマ略奪から逃げてきたロッソ・フィオレンティーノと出会い、その影響が後の自身の画風マニエリスムに反映しています。

メディチ家のコジモ1世の宮廷へ

このあと南から北までイタリアの各地を旅し、最終的にフィレンツェに落ち着き、40歳を過ぎた頃から8歳下のコジモ1世に仕えるようになりました。

-コジモ1世の肖像, アニョロ・ブロンズィーノ, 1545, 板に油彩, ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

ヴァザーリは30代半ば(1545年頃)から『芸術家列伝』を書き溜めており、これをコジモに献上したようです。
ここから先は、お互いの存在なくして語ることができないほど、両者は常に結びついています。

コジモ1世は1537年から若くしてすでにメディチ家の当主となっており、ヴァザーリがフィレンツェに戻ってきたころはまだ30代。
1540年にコジモ1世はラルガ通りの宮殿(現メディチ・リッカルディ宮殿)からヴェッキオ宮殿に引っ越しており、ヴァザーリはその新しい住居を素晴らしいフレスコ画で装飾する仕事を請け負いました。

そして1560年には後にウフィツィ美術館となる建物(当時は市内に分散していた行政機関を一か所に集めるために計画されました)の建築に着手します。この計画の一環として、1565年にコジモ1世の長男フランチェスコの結婚に際し、ヴェッキオ宮殿から丘の上の新しい住居ピッティ宮殿までを結ぶ、「ヴァザーリの回廊」を6か月ほどで完成させました。

同じころ(1563年)、芸術アカデミー(Accademia dell’Arte del Disegno)を創立しています。

ヴァザーリの代表的な絵画作品

彼の作品は建築が特に際立っていて、その名が多く登場するのですが、絵画作品も多数残しています。

現在もヴェッキオ宮殿内で見ることができる装飾のほとんどは、ヴァザーリの作品です。

コジモ1世の息子フランチェスコは活動的だった父と違って、内向的で一人で研究に勤しむことを好んだ人物で(錬金術がお好みでした…)、ヴァザーリはヴェッキオ宮殿内で最も広い部屋、500人広間の一角にフランチェスコのための書斎を作ります。
この書斎も栄華を誇ったメディチ家の次期当主のものとは思えないほど小さな部屋ですが、壁一面に取り付けられた棚に自分の大切なコレクションをひとつひとつ収めていたそうです。

この棚の扉や天井にもギリシア神話のエピソードなど、このような美しい絵がたくさん描かれています。

1572年、コジモ1世の注文でドゥオモのクーポラ内部のフレスコ画『最後の審判』に取り掛かります。

これはコジモ1世の大公としての公式な最後の注文でした。
フレスコ画の完成を見ることなく2年後の4月、この偉大なトスカーナ大公は世を去り、そして後を追うようにヴァザーリ自身も、作品を3分の1ほど完成させたところで同じ年の6月にその生涯を終えました。フレスコ画は後にフェデリコ・ズッカリが中心となって完成させました。

ヴァザーリはフィレンツェではサンタ・クローチェ教会の近くに住んでいましたが、遺灰は故郷のアレッツォに送られ、そこに葬られたいうことです。

ヴァザーリの…スキャンダル!?

ところでヴァザーリ先生の私生活はどうだったのでしょうか。

ヴァザーリ先生は結婚しているのですがなんと年の差25歳!
実は、30代前半のとき、2人の子どもをもうけた恋人がいたのですが、残念ながら彼女とは結ばれませんでした。
そしてその妹と結婚するんですが、その時点でヴァザーリ36歳、妻11歳(!!)
この時代でどうだったのかはわかりませんが…、話は合ったんでしょうか。。

ちなみに、このお姉さんの方との恋が成就しなかったので、フィレンツェに行って「芸術家列伝」をコジモに献上することを決めたと伝えられています。