フィレンツェと言えば300年ほど町を治めたメディチ家、その主要なメンバーが眠っているのがサン・ロレンツォ聖堂とメディチ家礼拝堂です。
メディチ家礼拝堂には『新聖具室』と呼ばれるミケランジェロがプロジェクト(設計&彫刻シリーズ)を担当した部屋があり、『昼と夜』をはじめとする彼の作品がとても有名です。
実はこの部屋に、かつての動乱の時代にミケランジェロ本人が身を隠すために使ったと言われる小部屋があり、そこが一般公開されました。
メディチ家礼拝堂目次
ミケランジェロの『秘密の小部屋』とは
メディチ家礼拝堂『新聖具室』
こちらの部屋は、現在メディチ家礼拝堂側から入場するようになっていますが、実はサン・ロレンツォ聖堂の一部。15世紀にブルネレスキが設計した旧聖具室(サン・ロレンツォ聖堂からアクセス)を参照して16世紀にミケランジェロがプロジェクトを担当した場所です。
サン・ロレンツォ聖堂
ここは空間の設計のみならず、ミケランジェロの大事なパトロンの一人、Lorenzo de’ Medici(イル・マニフィコ)とその弟ジュリアーノのお墓や、ロレンツォの子と孫のお墓もあり、それらの多くの部分の彫刻をミケランジェロが作っています。
そしてこちらの部屋の一角に何やら怪しい階段が…?
これこそが、かつてミケランジェロが隠れたと言われている小さな部屋への入り口です。
小部屋の存在の背景
この部屋の存在を語るには、まず16世紀のフィレンツェの時代背景をお話しなければいけません。
ロレンツォ・イル・マニフィコの死去とメディチ家のフィレンツェ追放
メディチ家は15世紀前半から実質的な町の支配者として有力な一家でしたが、1492年、イル・マニフィコ(豪華王)と呼ばれたロレンツォの死去と共に、次第にその権力の座が危うくなります。
折しもこの頃、フィレンツェにはサヴォナローラというドメニコ会の修道士が頭角を表し、メディチ家をはじめとする有力な商人階級や貴族などの贅沢な生活を声高に批判していました。一般民衆も次第に彼に感化され、メディチ家もだんだんとアンチが増えていきます。
サン・マルコ美術館【フィレンツェ】
しかも、ロレンツォ亡き後、当主となった長男ピエロは失策に失策を重ね、ついにメディチ家はフィレンツェから追放されてしまいます。
ピエロはPiero il fatuo(愚かなピエロ)と呼ばれてるくらい、全くもってダメダメだったのよね~
ピエロを筆頭に、次男のジョヴァンニ(後のローマ教皇レオ10世)、三男ジュリアーノ、甥のジュリオ(後のローマ教皇クレメンス7世)ほか、一族は方々へと亡命します。
そしてフィレンツェは共和国体制へ。
正確にはメディチ家のいた時代も体裁上は共和制ではあるんだけど、このタイミングをもって名実ともに共和国体制という感じね
この辺りの人物がメインキャラクターとなったお話が、こちら!時代背景も理解しやすいし、キャラクターがそれぞれ魅力的でとても読みやすいです。
『チェーザレ・ボルジア~破壊の創造者』15世紀末イタリアが舞台のおすすめ漫画!メディチ家、フィレンツェに復帰するもまたもや追放
その後、紆余曲折があって、メディチ家はいったんフィレンツェに帰還して政治の実権を握ったりもするのですが、また1527年、フィレンツェから追放されます。
実はフィレンツェ=メディチ家というイメージが強いんだけど、常に絶対的な支配者だったわけではなくて、一度目は1433年のコジモ・イル・ヴェッキオ、二度目は1494年のピエロ、そして1527年のアレッサンドロ、と三度にわたって町を追放されているの
この背景としては、長期にわたって領土・権力争いを繰り返していたフランス王と神聖ローマ皇帝の間の戦争(イタリア戦争)があります。両者は勝ったり負けたり、イタリアを主戦場として一進一退を繰り返していました。
イタリア的にはいい迷惑よね…
それというのも、イタリアは伝統的に、かつこの時代もフランスのようなまとまった王国というわけではなく、各地に共和国や公国などがひしめき合う場所だったので、一丸となって侵略してきた相手に対抗するということが難しかったんですよね。
そして、ローマ教皇はフランス側と同盟を結び、神聖ローマ皇帝カール5世に対抗していた1527年のこと。
5月6日、世にも無残な「ローマ掠奪(ローマ劫掠、Sacco di Romaとも)」が起こります。皇帝の命を受けた軍隊は、ローマを総攻撃、途中指揮官が死亡したことや皇帝からの賃金の支払いの遅れなどもあったため軍隊の統制が取れなくなって、ローマで掠奪・暴行などありとあらゆる乱暴狼藉がはたらかれたといいます。
このとき、ローマ教皇クレメンス7世となっていたメディチ家出身のジュリオ・デ・メディチ(ロレンツォの甥)は、皇帝軍から逃れるためサンタンジェロ城に逃げ込みます。これにより、フィレンツェでは共和派が蜂起して、メディチ家はまたもや町から追放されてしまいました。
このとき、ミケランジェロは共和国の組織した軍隊の建築家として反メディチ筆頭の一人という立場だったのです。
そしてその3年後の1530年、皇帝カール5世とメディチ家出身のクレメンス7世が和解。フィレンツェとしてはメディチ家の政権復帰に反発しましたが、皇帝軍がこれを包囲攻撃し、武力でメディチ家の復権を果たしました。
報復を恐れたミケランジェロの隠れ場所
こういった背景があって、ミケランジェロはメディチ家からの報復を恐れており、身の危険を感じていたのです。
ミケランジェロは、サン・ロレンツォ聖堂の参事会員だったGiovan Battista Figiovanniと友人でした。彼は、この偉大な芸術家を守るため、聖堂の一部だった新聖具室の一角に匿ったのでしょう。
新聖具室そのものを設計したのはミケランジェロ。どこがどうなっているのか、すべて知り尽くしていた、恐らくただ一人の人だったかもね~
しかも、設計を依頼したのはミケランジェロが報復を恐れていた教皇クレメンス7世まさにその人だったというのは、なんとも不思議なめぐりあわせ…!
しかし結局、恐れていたメディチ家からの報復はありませんでした。
それどころか、最も恐れていた教皇クレメンス7世は彼を保護し、自らが依頼したプロジェクトを先に進めるよう指示したのです。
心が広い!!すばらしい!!
ということで身を隠してから約2か月後、ミケランジェロは再び自由の身分を手に入れ、1534年にローマに赴くために町を離れるまで、フィレンツェでの仕事に従事しました。
ちなみにこの最後のときまで、新聖具室の建設には携わっていて、ミケランジェロがこの仕事を離れたときには未完成。後に、ヴァザーリが完成させました。
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この小部屋、実は発見されたのはかなり最近で、今から約50年前の1975年11月のこと。
1955年までは木炭置き場として使われていたようですが、その後使われておらず、入り口は家具や物置、その他諸々が山積みになってふさがれていたので、ずっと忘れ去られた存在でした。
当時のメディチ家礼拝堂の館長だったPaolo Dal Poggetto氏が礼拝堂の新たな出口を作るためのスペースの下見のため、この部分の清掃を修復士Sabino Giovannoni氏に依頼しました。
修復士が見たものは、新聖具室の後陣の下の細い通路(長さ10m×幅3m×天井2.5m)の壁に、何やらデッサンのようなもの。2層のしっくいの下に木炭で描かれた様々なサイズのデッサン、多くはまとまりがなく、落書きのように重ねて描かれているものもあったそうです。
報告を受けた館長は壁画を調べ、ミケランジェロの手になるものであると考え、仮説を立てました。
ミケランジェロはあの動乱の際、この小さな空間に逃げ込んだのではないか
反メディチ派の筆頭軍事建築家として働いていたミケランジェロへの報復を恐れ、サン・ロレンツォ聖堂の参事会員フィジョヴァンニがここへ彼を隠したのでは
館長がそのように考えた理由は、そこに残されていたデッサンには、まさにその上の新聖具室にあるジュリアーノ・デ・メディチの墓碑モニュメントの草案ともいえるスケッチや、ラオコーン(ミケランジェロの『トンド・ドーニ』の中にその形が採用されている)の頭部や彼の他の彫刻・絵画作品に見られる造形のデッサンと思われるものが多数含まれていたからです。
『ラオコーン』のような姿形が採用されているのはこちらの作品!
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そういうわけで、この世紀の一大発見は丁寧な修復作業へと進みました。
前述の通り、この空間は長さ10m×幅3m×天井2.5とわずかなスペースで、建物内部にあり窓も小さめ。おまけに作品を長い時間光にさらすわけにはいかないので、その作業は非常に困難を極めたことと思われます。
事実、現館長Paola D’Agostino氏は「長く忍耐を必要とする作業だった。様々な分野のプロフェッショナルの協力と美術館の係員に感謝したい。」と述べています。
一般公開後の入場方法
入場条件
ということでこの貴重な『ミケランジェロの秘密の小部屋』が2023年11月15日から一般公開されるわけですが、諸条件がありアクセスはなかなか難しいです。
- 予約必須、入場は指定時間のみ
月曜日・金曜日 15.00/16.30/18.00
水曜日・土曜日 9.00/10.30/12.00/13.30/15.00/16.30/18.00
木曜日 9.00/10.30/12.00/13.30/15.00
予約はTEL tel. +39 055 294883(イタリア語/英語/スペイン語)またはオンライン予約 - 一度に入場できる最大の人数は4名(一週間に最大100名)、かつ鑑賞時間は15分間
- 入場は狭い階段のみなので安全上の理由で、歩行に問題がある方と10歳以下は入場不可
(閉所恐怖症の方や心疾患のある方、妊娠中の方も避けたほうがベター) - 入場料は20ユーロ/名に加え、予約料3ユーロ/名、メディチ家礼拝堂の入場料9ユーロ、合計32ユーロが必要
- 入場時、身分証明書の提示が必要
- 大きな荷物、リュック、傘等は入場前に預ける
鑑賞時間や入場人数が厳しく制限されているのは、作品(デッサン)がLED光にさらされる時間を一定以下に押さえなければいけないためです。
そしてこの制限人数のためあっという間に予約が売り切れていっているようで、予約受付開始後5日の時点で最短の受付可能日は3か月後ですとのことでした。超有名マエストロの秘密の小部屋、しかも初公開とあって予約が殺到しているんですね…!
チケットの売り切れスピードは速く、当初の公開期間3月末から延長されたものの、常時半年近く先まで完売状態が続いています。
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