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ヴェッキオ宮殿の「アルノルフォの塔」の歴史、なかなか味があって面白い。

さて、前回ご紹介したフィレンツェ一望の穴場スポット、ヴェッキオ宮殿の「アルノルフォの塔」。

フィレンツェの景色一望の穴場写真スポット!ヴェッキオ宮殿の『アルノルフォの塔』がおすすめ。

見晴らしは抜群見た目もかなり迫力があり、威風堂々としているのですが、歴史をひもといてみるとなかなか味があって面白いのです。

それではどんなお話が隠されているのか、ちょっと昔の世界に行ってみましょう!!

アルノルフォの塔、実は…①〇が建設されたのは一番先!

なんと意外なことに、この塔は実は宮殿の本体よりもさらに古いのです。

もともとこの場所にフォラボスキの塔(Torre dei Foraboschi)というものが存在していて、それをぐるりと囲むように建てられたのがヴェッキオ宮殿。

とはいっても、最初からこの高さがあったわけではなく、もっと高さは低い塔があって、それを囲む宮殿と塔の高さを伸ばす設計がされたという説が有力。

この設計をしたのが、たぶん、アルノルフォ・ディ・カンビオで、そこからアルノルフォの塔、と呼ばれるようになったのです。

フィレンツェの礎を築いた偉大な13世紀の芸術家、アルノルフォ・ディ・カンビオ。
イタリア人ガイドマーク先輩
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アルノルフォ・ディ・カンビオはドゥオモの設計もしたし、以前のファサードも彼の作品!オルサンミケーレ教会とか、サンタ・クローチェ聖堂とか、とにかくフィレンツェの街にある大事な建物はほぼ彼のおかげであるといってもいいぐらいだ!OK?

アルノルフォの塔は1310年、そしてヴェッキオ宮殿の本体は1315年に完成しました!!

イタリア人ガイドマーク先輩
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とはいっても、この後200年以上かけて、宮殿は市民やメディチ家のコジモ1世がどんどん拡張工事していったんだ!最終的に面積は2倍以上の巨大な宮殿になったぞ!OK?

アルノルフォの塔、実は…②塔の中には〇〇が!!

イタリア人ガイドマーク先輩
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この塔の柱身の部分には独房があって、ここには1433年にコジモ・イル・ヴェッキオが、1498年にジローラモ・サヴォナローラが留置されたんだ!!

メディチ家の最重要人物 コジモ・イル・ヴェッキオ(老コジモ)

コジモ・イル・ヴェッキオ(Cosimo il Vecchio / 1389-1464)というのはメディチ家当主の中でも最も重要な人物のひとり。

コジモ・イル・ヴェッキオ
『コジモ・イル・ヴェッキオの肖像』ポントルモ, 1519-1520頃, 板に油彩, ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

たくさんの芸術家を保護し、文化の発展を奨励したので、彼のおかげでフィレンツェがここまで栄えたといっても過言ではありません。

旅好きナナミちゃん
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どうしてそんなすごい人が独房に閉じ込められたの?

実は、メディチ家がフィレンツェに来たのはコジモの数世代前の時代。

コジモの父、ジョヴァンニが銀行業を成功させて発展した家ですが、この時代はまだまだ街の中に有力な家同士が力を競っていた時代。

ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ~華麗なるメディチ一族の創始者

コジモは彼のことをよく思わないライバルの一家を中心として陰謀に陥れられ、ここに閉じ込められることに。

イタリア人ガイドマーク先輩
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彼の強い政治力や民衆からの人気を恐れたライバルたちが、事前にその芽を摘んでしまおうと企んだんだ!!OK?

それからコジモはフィレンツェを追放されますが、民衆の彼の復帰を求める声に応じて、翌年フィレンツェに返り咲きました。

『コジモ・イル・ヴェッキオの帰還』ジョルジョ・ヴァザーリ, 1556年頃, しっくいに油彩, ヴェッキオ宮殿(フィレンツェ)

これはフィレンツェに戻ったコジモが民衆に歓迎されている様子。

ドメニコ会の修道士ジローラモ・サヴォナローラ

コジモの孫にあたるロレンツォ・イル・マニフィコ(ロレンツォ豪華王)の時代、フィレンツェはかつてないほど芸術の都として花開きます。

ロレンツォ・イル・マニフィコ
『ロレンツォ・イル・マニフィコの肖像』ジョルジョ・ヴァザーリ, 1534, 板に油彩, ウフィツィ美術館(フィレンツェ)
イタリア人ガイドマーク先輩
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ロレンツォは自分も詩人だったし、哲学や文学、美術などあらゆる方面の芸術に関心を示し保護奨励したんだ!

この時代はアンドレア・デル・ヴェロッキオレオナルド・ダ・ヴィンチボッティチェリペルジーノアンドレア・デル・ポッライオーなどなど、挙げ出したらきりがないくらいたくさんの芸術家が彼のもとで仕事をしました。

イタリア人ガイドマーク先輩
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そして、何より大切なのはあのミケランジェロの才能を見出し、それを伸ばしてやるべく自分のコレクションを解放し彼が勉強することを手を尽くして助けたことだ!!OK?

『牧神を彫る少年ミケランジェロ』エミリオ・ゾッキ, 1862, 大理石, パラティーナ美術館(フィレンツェ)

しかしそんなロレンツォも1492年、病気でこの世を去りました。

イタリア人ガイドマーク先輩
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ミケランジェロは恩人・ロレンツォ・イル・マニフィコの死を誰よりも深く嘆き悲しんだらしい!

ロレンツォの死と前後して頭角を表してきたのがジローラモ・サヴォナローラ

『ジローラモ・サヴォナローラの肖像』フラ・バルトロメオ, 1498, 板に油彩, サン・マルコ美術館(フィレンツェ)

彼は祈りと労働を規範とするドメニコ会の修道士で、当時の贅沢に慣れ切った聖職界や、フィレンツェの上流階級、特にメディチ家の様子を非難しました。

サヴォナローラの説教に感化されたフィレンツェの民衆は、ロレンツォ亡き後の当主ピエロが頼りないせいもあって、メディチ家を敵視するようになります。

贅沢を敵とするサヴォナローラは、有名な「虚飾のかがり火」により、多くの美しい美術作品や貴重な品々が捨てられ、燃やされ、破壊されてしまいました…。この動きにはボッティチェリを含む多くの芸術家も感化され、たくさんの作品が失われてしまいました。

世紀末のフィレンツェはサヴォナローラの支配下に…ボッティチェリにも影響!

最終的に、サヴォナローラはローマ教皇庁を公然と批判したことで教皇の怒りを買い、異端の罪を問われ処刑されることに。

その処刑が行われたのが1498年5月23日、この日をサヴォナローラは塔の中の独房で迎えたのでした。

イタリア人ガイドマーク先輩
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ちょっと、やりすぎちゃったんだな…

5月23日、サヴォナローラの命日に行われる行事「Infiorata」 5月23日、サヴォナローラの命日「Infiorata」

サヴォナローラの功績

サヴォナローラ、目立ちすぎましたが彼のやったことは悪いことだったわけではありません。

当時の教皇庁を中心とする聖職者たちは汚職や贅沢など、腐敗していたのでその改革を目指していたのです。

ですが、権力者に逆らうにあたってあまりにも急激に、強引にやりすぎたのが彼の命を短くする結果になってしまったんですね。

イタリア人ガイドマーク先輩
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ちなみに、ヴェッキオ宮殿内の有名な500人広間は彼の意向により設計されたものなんだ!

ここも、2016年公開の映画「インフェルノ」で舞台となり、大事な鍵を握るヴァザーリの「探して見つけよ(cerca, trova)」が登場する壁一面の絵が登場します。

アルノルフォの塔 正面の大きな時計

塔の正面には大きな時計がついています。

時間を示す針は1本だけ。

もともとはニッコロ・ベルナルドというフィレンツェ人作者によるものが設置されていましたが、1667年に現在のものに付け替えられました。

これは現在もちゃんと機能しています。

ヴェッキオ宮殿、アルノルフォの塔、古代ローマ劇場遺跡