世紀末のフィレンツェはサヴォナローラの支配下に…ボッティチェリにも影響!

サヴォナローラの肖像

フィレンツェとメディチ家は、切っても切れない関係。

 

15世紀頃から1737年まで、300年以上にわたってフィレンツェの町の実質的な支配者として街の発展に力を尽くし、多くの芸術家を保護し育てました。

 

そんなメディチ家ですが、歴史上なんと3回もフィレンツェから追われたことがあるんです。

 

その最も長かった期間が、2回目に追放された1494年~1512年の18年間

 

この時に台頭し、権力を握った人物、それがジローラモ・サヴォナローラ

 

神に仕える修道士の身でありながら政治にも強く影響を及ぼし、贅沢を敵対視。

 

あの「春(プリマヴェーラ)」や「ヴィーナスの誕生」など華やかな名作を生み出したボッティチェリにも影響を及ぼし、15世紀末のフィレンツェで異色の存在として歴史に名を残しました。

ドメニコ会修道士ジローラモ・サヴォナローラ

サヴォナローラの生い立ち

サヴォナローラの肖像

ジローラモ・サヴォナローラの肖像
フラ・バルトロメオ, 1498
サンマルコ美術館, フィレンツェ

ジローラモ・サヴォナローラ(Girolamo Savonarola / 1452-1498)はフィレンツェとヴェネツィアの間にある、フェッラーラという街の出身。

 

身分は平民のようですが、母方の血筋に貴族がいたり、祖父がお医者さんだったりとそれなりに裕福な家庭と思われます。

 

幼い頃から祖父に文法、音楽、デッサンなどを教えられ、哲学、医学なども学びます。ちなみにこの祖父はかなり質素な生活を好む、厳格な人物だったよう。後のサヴォナローラの思想はここにルーツがあるのでしょう。

 

1474年、22歳頃でボローニャにてドメニコ会に入信。修道士への道を歩み始めます。

 

メディチ家との縁でフィレンツェへ

1482年のこと。

 

サヴォナローラは、メディチ家当主のロレンツォ・イル・マニフィコ(Lorenzo il Magnifico <ロレンツォ豪華王> / 1449 -1492)に呼ばれて、フィレンツェのサン・マルコ修道院の仕事をするためにやってきました。

(ロレンツォ豪華王)

ロレンツォ・イル・マニフィコ

 

ロレンツォは芸術や哲学に造詣の深い人物で、哲学・人文学者のピーコ・デッラ・ミランドラ(Pico della Mirandola)の勧めでサヴォナローラに声をかけたのでした。

 

 

ガイド学校の先生カテリーナ

つまりサヴォナローラにとってはロレンツォは恩人のようなもの。でもそんなロレンツォを、後にサヴォナローラは批判の的としたの…

 

さて、フィレンツェにやってきたサヴォナローラですが、この時は残念ながら説教者としてフィレンツェ市民にあまり支持されませんでした。

 

ガイド学校の先生カテリーナ

その理由は、彼の話す言葉が出身地のロマーニャ地方の訛りが強く、フィレンツェ市民には聞きづらかったからだと言われているわ

 

サヴォナローラの台頭とロレンツォの死

そんなわけで、いっときフィレンツェを離れたサヴォナローラですが、1490年、再びフィレンツェのサン・マルコ修道院に戻り、サン・マルコ修道院長の役職に就きます。

 

今回は、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂やサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)にて神の教えを説く役目を任せられるほどに。

 

ガイド学校の先生カテリーナ

それというのも2度目のチャンスを与えてくれたメディチ家のロレンツォのおかげだったのよ

 

しかし、栄華を誇ったロレンツォも、生身の人間。持病の痛風が悪化し、床に臥せることが多くなりました。

 

サヴォナローラは、ロレンツォが特に厳しく制することがないのをいいことに、フィレンツェの上流階級の贅沢(暗にメディチ家)や堕落した風紀を激しく批判します。

 

自分がフィレンツェで活躍できるのもロレンツォのおかげだというのに…!

 

彼の情熱的な説教は次第に民衆の心をつかみ、一定の人気を勝ち取るようになりました。

 

1492年4月5日。フィレンツェのドゥオモのクーポラの頂上にある、金色の球を雷が直撃。不吉なしるしでは…と恐れるフィレンツェの人々。

1492年4月5日ドゥオモの頂上を雷が直撃

 

そしてその3日後ロレンツォ・イル・マニフィコが死去しました。

 

フィレンツェでの神権政治

ロレンツォ亡き後のフィレンツェでますます力を振りかざすサヴォナローラ。

 

とにかく贅沢を批判し、質素な生活を人々にも強要します。

 

そして、「さもなければフィレンツェは遅かれ早かれ敵の手に落ちるだろう」とドゥオモの説教壇から叫びました。

 

メディチ家の追放

メディチ家当主ロレンツォの跡継ぎは、長男ピエロ。

ピエロ・イル・ファートゥオ(愚かなピエロ)

ピエロ・イル・ファートゥオ(愚かなピエロ)

この人は後に「愚かなピエロ(Piero il Fatuo)」と呼ばれてしまうほど、失策を重ねます。

 

当時のヨーロッパではたくさんの国の君主同士で血縁関係があり、それぞれに力争いをしていました。

 

フランス国王シャルル8世もその一人で、自分の血筋からナポリ王国の王位継承権を主張します。が、当時のローマ教皇アレクサンデル6世はこれを拒否。ならば、とシャルル8世はナポリ王国を武力で奪い取ろうとイタリアに進軍してきました。これが1494年のこと、イタリア戦争の始まりです。

 

シャルル8世はパリからミラノ、トスカーナの海沿いを経由し、フィレンツェに開城を要求。

 

当主ピエロはこれに応じ(たどころか、要求された以上の)3つの要塞とピサ、リヴォルノの支配権、そしてフィレンツェを自由に通行する権利をシャルル8世に与えてしまいました。

 

ガイド学校の先生カテリーナ

サヴォナローラの不吉な予言が的中してしまったというわけね…

 

この交渉を終えてフィレンツェへ戻るやいなや、激怒したフィレンツェ市民たちからピエロを筆頭にメディチ家一族は街から追放されてしまいました。

 

反対に、予言を的中させたサヴォナローラはますます民衆の支持を得て、さらに勢いを増します。

 

共和制のフィレンツェで神権政治

メディチ家を追放したフィレンツェは、共和制を宣言。

 

その政治の中心的存在として、サヴォナローラは大評議会を組織し、ヴェッキオ宮殿内に五百人広間と呼ばれる大きな部屋を作らせました。

500人広間ヴェッキオ宮殿, フィレンツェ

500人広間
シモーネ・デル・ポッライオーロクロナカ>,
1496
ヴェッキオ宮殿, フィレンツェ

 

そしてますますフィレンツェにおける力を強めた彼は、かねてからの主張通り、上流階級による贅沢や民衆の堕落をますます非難するようになり、神の名のもとにカトリック第一の政治を推し進めます。

 

虚栄の焼却のかがり火

虚栄の焼却とは

虚飾のかがり火

 

サヴォナローラの名が有名なのは、この「虚栄の焼却」のかがり火によるもの。

 

これは、

…かつら、つけひげ、変装用衣装、口紅容器、トランプとさいころ、鏡と香水、あらゆる様式の衣服と装身具、本と素描、美しいフィレンツェ貴婦人の胸像と肖像画…」など、世俗的で人を惑わし、虚栄心をくすぐる品々を燃やした

-マッシモ・ウィンスピア「メディチ家-美術品収集の黄金時代」, sillabe, 2002

というかがり火のこと。

 

これによって、当時のフィレンツェにあった多くの貴重な品々が失われることになりました。

 

影響を受けたボッティチェリ

サヴォナローラの強烈な主張はとても強く、当時の有力者や芸術家にも大きな影響を及ぼしました。

 

その最たるものがサンドロ・ボッティチェリ。ロレンツォ・イル・マニフィコ時代のメディチ家の庇護のもと、その才能を花開かせ華やかな作品をたくさん残したのですが、サヴォナローラに傾倒するようになってからは一転。

 

1480年代の「春(プリマヴェーラ)」や「ヴィーナスの誕生」の美しい世界観とは裏腹な、厳粛で悲哀に満ちた作品を描くようになりました。

 

例えばこんな作品など。

中傷

「中傷」
サンドロ・ボッティチェリ, 1490-95
ウフィツィ美術館, フィレンツェ

 

これ以降のボッティチェリは、すべてサヴォナローラの説教からインスピレーションを得て表現されたものばかりです。

 

ガイド学校の先生カテリーナ

でも残念ながらこういった作風の絵はあまり売れなかったし、メディチ家を失ったフィレンツェではパトロンも見つからず、ボッティチェリは失意の晩年を過ごしたの…

 

サンドロ・ボッティチェリ物語。人物像と代表作品は?

 

サヴォナローラに影響を受けたのはボッティチェリだけではなく、ミケランジェロフラ・バルトロメオの名も挙げられています。

 

サヴォナローラの最期

1498年5月23日

こうしてフィレンツェにおける大きな影響力を手に入れたサヴォナローラ。

 

次の矛先はローマ、そう、ローマ教皇のいるバチカンに向けられました。

 

この時のローマ教皇はアレクサンデル6世(Papa Alessandro VI / 在1492-1503)。
スペイン貴族出身で、本名はロドリゴ・ボルジア(Rodorigo Borgia / 1431-1503 )といい、毒殺王として名高いチェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia / 1475-1507 )の実父です。

 

このアレクサンデル6世は贅沢が大好き、大食、放蕩、貪欲で背徳的な人物。

 

ガイド学校の先生カテリーナ

生涯独身であるはずの聖職者でありながら、チェーザレ以外にも、美女と謳われた妹のルクレツィア・ボルジア他数名の子がいたの。…とはいっても、公式にはローマ教皇に子がいるなんて言ってはいけないので、甥とか親戚の子、という扱いになっていたのよ

 

そんなアレクサンデル6世、当初はサヴォナローラをさほど重要視せず野放しにしていましたが、いずれその頭角を表してきた様子に警戒心を抱き、最終的にローマ教皇庁へのあからさまな批判に激怒した教皇はサヴォナローラを破門に。

 

そしてついに、1498年5月23日、45歳のジローラモ・サヴォナローラは収監されていたヴェッキオ宮殿の「アルノルフォの塔」から、シニョーリア広場にある絞首台へと送られ、2人の追従者と一緒に火あぶりの刑に処され最期を迎え、彼らの遺灰はアルノ川へとまかれました。

コジモ・イル・ヴェッキオの帰還ヴェッキオ宮殿の「アルノルフォの塔」の歴史、なかなか味があって面白い。5月23日、サヴォナローラの命日に行われる行事「Infiorata」5月23日、サヴォナローラの命日「Infiorata」
 

サヴォナローラの椅子

サヴォナローラが修道院長を務めたサン・マルコ修道院(現サン・マルコ美術館)には、X型をした特徴的な折り畳み式の椅子があります。

サボナローラ・チェアと呼ばれるこの椅子は、現在もインテリアとして人気。

 

発祥は古代ローマ時代に遡るようで、特に彼が発明したとかいうわけではないようですが、サヴォナローラ自身が使っていた個室に置かれています。

 

他の修道士の個室に比べると少し大きいですが、とても小さなスペースに机とこの椅子、ベッドだけが入るであろう小さな部屋、それとロビー的な小さな空間が、彼の個室のすべて。

 

修道院長という地位ではありますが、質素な生活を推進しただけのことはあります。

 

彼が長い時間を過ごしたサン・マルコ修道院(現美術館)は、フィレンツェの街中の喧騒から隔離された独特の空間。特に信仰深かったベアート(フラ)・アンジェリコの神への愛で溢れた作品がいっぱいで、ちょっと穏やかに気持ちが整えられる美術館です。

 

受胎告知 ベアート(フラ)・アンジェリコ, 1440-1450 サン・マルコ美術館, フィレンツェサン・マルコ美術館【フィレンツェ】

 

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