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見どころたくさん、『フィレンツェのパンテオン』サンタ・クローチェ聖堂。二度目のフィレンツェ旅におすすめ!

ローマ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノ、ナポリ…イタリアには数々の有名な街があり、1週間の旅行で2つ、3つと周遊する人も少なくありません。その中でも、フィレンツェは「とてもよかったからもう一度行きたい!」という声が多数聞かれる、人気の街。

一度目の滞在では、『花の都』の名にふさわしい美しい大理石造りのドゥオモや、幻想的なヴェッキオ橋、それに世界有数の豪華なコレクションを誇るウフィツィ美術館など、圧倒される時間が続いたはず。

そんなわけでぜひとももう一度滞在したい!でも前とは違うところもちょっと見てみたい…そんな人に『サンタ・クローチェ聖堂』がおすすめです!

サンタ・クローチェ聖堂 フィレンツェ サンタ・クローチェ聖堂

サンタ・クローチェ聖堂とは

サンタ・クローチェ聖堂の場所


サンタクローチェ聖堂は、フィレンツェの地図で見ると、ドゥオモの南東方向、ウフィツィ美術館の東方向にあります。

フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅からは徒歩で25分ほど。

イタリア人ガイドマーク先輩
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バスでも行けるよ~

フィレンツェでバスに乗ってみよう!バスの使いこなし方徹底ガイド♪


少々離れていますが、実は観光地は大体この辺りが東端になります。
ヴェッキオ宮殿ウフィツィ美術館辺りからは徒歩で10分程度と、他の観光地との組み合わせで考えるとそれほど遠くはありません。

サンタ・クローチェ聖堂のはじまり

教会の前身となる小さな礼拝堂がこの地に建てられたのは1221年頃のこと。そして1252年頃に教会が立てられました。そのころは今よりもずっと小さいものだったはずです。残念ながら、その当時の姿やはっきりした位置はわかっていません。

今の姿の教会が建設され始めたのは、1294年から95年にかけて、アルノルフォ・ディ・カンビオの設計によるものだとされています。
現在の姿は、全長は115.43m、身廊の幅は38.23m、翼廊の長さは73mと、かなり大きな規模のもの。

イタリア人ガイドマーク先輩
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ドゥオモ(サンタマリアデルフィオーレ大聖堂)のサイズが全長153m×身廊の幅38m×翼廊の長さ90mだから、それより一回り小さいぐらいかな!かなり大きいね!OK?

会派はフランチェスコ会

ところでカトリックにはいろいろな会派があるのですが、このサンタクローチェ聖堂の会派はフランチェスコ会というもの。

聖痕を受けるアッシジの聖フランチェスコ

これは、イタリア中部の町アッシジ出身の聖フランチェスコという人を始まりとする会派で、モットーは『清貧』。創始者である聖フランチェスコは裕福な生まれでありながら、神の啓示を受けたことで自分の持ち物をすべて放棄し、生涯粗末な修道衣と腰ひも1本のみで過ごしたという人ですから、そこから来ているんですね。

カトリックの有名な「聖人」たち。そのエピソード、アトリビュートを知って美術を楽しもう!
イタリア人ガイドマーク先輩
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さらに足元は裸足だよ!今でもフランチェスコ会の人は、聖フランチェスコと同じように茶色の僧衣に腰ひものみ、足元はさすがにサンダルははいてるけど裸足で過ごすんだ!


そんなフランチェスコ会の教会は、普通、内部の装飾などもとても質素になっています。

ここフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂も、規模こそ非常に大きい(フランチェスコ会のものとしては世界最大である)ものの、内部の装飾はかなり控えめなほうです。

でもなかなか見ごたえのある美術作品が満載です。それでは、どんなものがあるのか見てみましょう!

教会内部には有名人のお墓が勢ぞろい

ここ、サンタ・クローチェ聖堂は『フィレンツェのパンテオン』として有名です。

旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

パンテオンってローマの…?

その通り!本物の、ローマのパンテオンは神殿として建てられたんですが、実は様々な有名人のお墓があることでも有名です。

ここには、初代イタリア王国国王のヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とその子どもウンベルト1世のお墓、それにラファエロのお墓もあるんですよ。

そして、サンタ・クローチェ聖堂は本物のパンテオンと同じように、色々なお墓が並んでいます。

まずは床のお墓に注目!

教会の床に目を向けると、たくさんの石碑が埋められていることに気づきます。

サンタ・クローチェ聖堂の床 お墓がいっぱい!


これらはすべてかつてフィレンツェに暮らしていた市民の墓碑です。現在は250基ほどありますが、最盛期には約1000基のお墓があったそうです。

18世紀に当時のトスカーナ大公ピエトロ・レオポルドが聖堂内での埋葬を禁止し、その後紆余曲折うよきょくせつがあって19-20世紀に最後のロッシーニのお墓が作られ、それ以降は増えていません。

さて、床のお墓の中に…

ロレンツォ・ギベルティの墓碑

こちらは、Lorenzo Ghibertiロレンツォ・ギベルティ(1378-1455)のお墓。彼は何をした人かというと…

東扉(天国の門)
サン・ジョヴァンニ洗礼堂東扉(天国の門)


フィレンツェのシンボル、ドゥオモの前に位置するサン・ジョヴァンニ洗礼堂。その東側の黄金の扉『天国の門』の作者なんです。

天国の門 ミケランジェロも惚れた!「天国の門」と呼ばれる極上の扉、フィレンツェの洗礼堂にあります。
イタリア人ガイドマーク先輩
イタリア人ガイドマーク先輩

あのミケランジェロもこの門の細工にいたく感動して、そのアイデアを自分の作品内に取り入れたんだ!OK?


そのあたりのエピソードに関して、詳しくはこちら!

ミケランジェロ/トンド・ドーニ(聖家族) ミケランジェロの唯一の板絵「トンド・ドーニ(聖家族)」巨匠こだわりの逸品!

ギベルティの墓碑には、「洗礼堂の比類なき扉が その卓越した知識を証する創造者」と書かれています。

ガリレオ・ガリレイのお墓

さて、続いては主祭壇に向かって左側の壁、もっともファサードに近い場所にあるこちら。
ここに眠っているのはあのGalileo Galileiガリレオ・ガリレイ(1564-1642)です。

『ガリレオ・ガリレイの肖像画』, ユストゥス・スステルマンス, 1635, キャンバスに油彩, ウフィツィ美術館(フィレンツェ)


ガリレオはピサ生まれの学者で、ピサ大学やパドヴァ大学で教えていた人ですが、ご存知の通り地動説を主張したことから宗教裁判で異端とされ、ローマ教皇から破門された人です。

イタリア人ガイドマーク先輩
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でも実はガリレオは敬虔なカトリック教徒だったと言われているんだ!だから教会に歯向かうつもりとか、恨みがあるとかいうことは本人にはなくて、純粋な科学的研究の結果、その結論にたどり着いたということだろうね!

旅好きナナミちゃん
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ガリレオとフィレンツェは縁があるの?

イタリア人ガイドマーク先輩
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当時のフィレンツェを治めていたトスカーナ大公はメディチ家のコジモ2世!彼に請われてフィレンツェで数学や哲学を教えていたんだ!だからフィレンツェにはガリレオが住んでいた家のほか、ガリレオ博物館に彼が実際に使った望遠鏡などが保存されているんだ!OK?


ガリレオのモニュメントは、彼の功績を称える様々なモチーフで装飾されています。

ガリレオのお墓(部分)

一番上には本人の胸像があり、その手には望遠鏡。胸像のすぐ下には一つの星の周りに円を描いてまわる4つの星。これは、彼の偉大な発見、木星とその4つの衛星(イオ、エウロパ、ガニメデ、カリスト)を表しています。

イタリア人ガイドマーク先輩
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この4つの衛星はパトロンであったメディチ家のコジモ2世に捧げられたものなんだ!だからイタリア語では『メディチ衛星』とも呼ぶんだよ!



そして、左下には天文図を手にした女性、右下には幾何学の図を示した板を手にした女性。これらもそれぞれ、ガリレオの功績を示しています。
一番下の部分にガリレオ・ガリレイの名前(ラテン語表記:GALILAEVS GALILEIVS)が読めますね!

ガリレオのお墓(部分)
旅好きナナミちゃん
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でもさ、ガリレオって破門されてたのに、教会の中にお墓を作れるものなの?

イタリア人ガイドマーク先輩
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いいところに気づいたね!


実は亡くなった時点(1642年)で葬られたのはこの場所ではありませんでした。
教会内部のずっと奥のほう、現在のメディチ家礼拝堂(ノヴィツィアート礼拝堂)の隅の方に埋葬されたのです。

現在の場所に移すことが許されたのは、死後実に100年近くが経過した、1737年のことでした。

イタリア人ガイドマーク先輩
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でもガリレオの破門が解かれたのは実は1992年のこと!かなり最近だね!


お墓の作者は、全体のプロジェクトとガリレオの胸像がGiovan Battista Fogginiジョヴァン・バッティスタ・フォッジーニ、その他それぞれ別の作者がいます。 

ミケランジェロのお墓

次は、ガリレオの墓碑のちょうどお向かいにある、Michelangelo Buonarrotiミケランジェロ・ブォナローティ(1475-1564)のお墓です。

『ミケランジェロ・ブォナローティの肖像画』, ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ, 1545頃, 板に油彩, メトロポリタン美術館(ニューヨーク)
ミケランジェロのお墓
旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

おぉ、あのミケランジェロ!さすが、なかなか豪華なお墓ですね!



ミケランジェロのお墓も、本人の功績を称えるモチーフが使われています。

上にはミケランジェロの胸像、そして下には悲しげな表情をした3人の女性。左から順に、『絵画』『彫刻』『建築』を表しています。それぞれの手元をのぞくと、『絵画』は左手に絵筆の束を、『彫刻』は左手にのみを、そして『建築』は右手にコンパスを手にしています。

ミケランジェロのお墓(部分)
旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

そう、ミケランジェロは全部やるんだよねー!すごいよねー!

イタリア人ガイドマーク先輩
イタリア人ガイドマーク先輩

この時代の芸術家はこの三分野をすべて勉強しなければいけなかったんだ!でも、その中の一部で才能を発揮して有名な人がほとんどだけど、全部でこれだけの完成度に到達したミケランジェロはやはり特別!!



ちなみにミケランジェロは1564年、ローマで亡くなりました。そしてローマ教皇ピウス4世の命により、ローマのサンティ・アポストリ教会というところに埋葬されました。

旅好きナナミちゃん
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あれっ、じゃあお墓が二つあるってこと?


実は、いったん埋葬されたミケランジェロの遺体、フィレンツェ人たちが「偉大なマエストロはフィレンツェに眠るべきだ!」としてこっそり盗み出し、フィレンツェまで運んだのです…

旅好きナナミちゃん
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なななんと…!大胆な…!


水面下でこっそり運ばれたはずのこの計画、瞬く間にフィレンツェ中の人が知るところとなり、教会には大勢の人が溢れます。

もちろん、フィレンツェを統治していたトスカーナ公コジモ1世の耳にもその話はすぐに届き、サン・ロレンツォ聖堂での葬儀のあと、彼の一族が代々眠るサンタ・クローチェ聖堂内に偉大なマエストロにふさわしいモニュメントを作るように、と命が下されました。

イタリア人ガイドマーク先輩
イタリア人ガイドマーク先輩

ブォナローティ家はサンタ・クローチェ地区に代々暮らしていて、一応は貴族階級でもあったので聖堂内に一族は葬られていたんだ!


近くにはミケランジェロ自身が購入した『カーザ・ブォナローティ』が美術館として公開されています。

カーザ・ブォナローティ(ミケランジェロの家)

こちらのモニュメントの作者、というかプロデューサーはGiorgio Vasariジョルジョ・ヴァザーリです。

ダンテのお墓(モニュメントのみ)

お次は、『イタリア語の父Dante Alighieriダンテ・アリギエーリ(1265-1321)のモニュメントです。

ダンテのお墓(モニュメントのみ)

ダンテはフィレンツェ生まれの偉大な詩人です。
13世紀から14世紀にかけて生きていた人で、政治抗争に巻き込まれ故郷フィレンツェを追われ、イタリア各地を転々としながらかの有名な『神曲』を書き上げました。

ダンテの『神曲』の世界へようこそ!作者ダンテ・アリギエーリとあらすじをわかりやすく解説。
旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

ダンテはどうして『イタリア語の父』と呼ばれているの?


それこそがダンテが今日に至っても称えられる理由の一つ。

著作を著すのにはラテン語を使うのが常識だった当時の世界において、故郷フィレンツェで話されていた口語で『神曲』を著し、そしてその言葉が現代イタリア語の元になっているので、ダンテは『イタリア語の父』なんです!

フィレンツェ人のポールくん
フィレンツェ人のポールくん

イタリア人は原文で読んでほぼ意味がわかりまーす


日本の時代で言うと鎌倉時代。『平家物語』とか『方丈記』、『徒然草』などが書かれた頃です。この辺りを原文で読んで理解できるかというと…、ちょっと今の日本語とは違いますよね!

旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

なるほどー、それは確かに偉大だ!!




ということで偉大な詩人ダンテのお墓がここに…と言いたいところですが、実はここにはダンテ本人は眠っていません

旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

…といいますと?


ダンテは前述の通り、故郷を追われて各地を放浪していました。最終的に亡くなったのはアドリア海沿いのラヴェンナという街で、そこに葬られました。

19世紀にサンタ・クローチェ聖堂内にダンテの墓碑を作ろう!となったときに、フィレンツェはラヴェンナにダンテの遺骨を返してくれないかと交渉したんですが、ラヴェンナはこれを拒否。

ラヴェンナ
ラヴェンナ

フィレンツェは有名な人のお墓いっぱいあるからいいじゃない!ミケランジェロとか、ガリレオとか、ブルネレスキ(※)とか、その他にもいろいろ、さ!ダンテのお墓はこのままラヴェンナに置いておくよー

※ブルネレスキはドゥオモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)の地下に眠っています。


そういうわけで、ここサンタ・クローチェ聖堂には空っぽのモニュメントのみがあるというわけです。

モニュメントの一番上にはダンテの胸像、頬杖の下には代表作『神曲』が、左下にはイタリア」の寓意が偉大な詩人を指し示し、右下には」の寓意が大きな悲しみを表現しています。

作者はフィレンツェ人の19世紀の彫刻家、Stefano Ricciステファノ・リッチです。

『神曲』を読んでみたい!という場合はこちら。地獄篇のほかに、煉獄れんごく篇・天国篇があります。


解説本も色々出ていて、参考になりますよ!

こちらは、ダンテ研究の第一人者、原基晶氏による本格的な最新のダンテ研究論です。とても読みごたえがあります。

マキャヴェッリのお墓

続いて少し前、祭壇寄りに進みます。15世紀の終わりから16世紀にかけてフィレンツェ共和国の外交官として働いたNiccolò Machiavelliニコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)のお墓です。

『ニッコロ・マキャヴェッリの肖像』, サンティ・ディ・ティート, 1575-1599, 板に油彩, ヴェッキオ宮殿(フィレンツェ)
マキャベッリのお墓

作者はローマ生まれの18世紀の彫刻家、インノチェンツォ・スピナッツィです。

マキャヴェッリの横顔が彫られた大きなメダルを右手に棺に腰かけているのは『政治』の寓意。左手には鋭いバランス感覚が求められる「外交」を暗示する天秤があります。

旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

マキャヴェッリ…『君主論』の人だよね

正解です!その他にも、マキャヴェッリは『戦術論』『政略論』、『フィレンツェ史』など、たくさんの著書を著しています。基本的な主張は「自前の軍隊を持って、軍事力を強化すべき!」という点でした。

彼の生きていた時代、既に皇帝や王を戴く大国となっていたオーストリアやフランスと違って、イタリアはまだまだ小国がひしめき合って日々争い、領土の配分はめまぐるしく変わっていました。

そのような時代にあっては

マキャヴェッリ
マキャヴェッリ

自前の固定された、統率された軍隊が必須である!さらにリーダーは数々の能力と人を惹きつける器が必要だ!

と考えていたのです。

旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

固定された軍隊がない…とは…?


この時代の主流は傭兵制度、つまりお金で雇われた寄せ集めの兵士で構成される軍隊で外国と戦っていたのです。お金がなければ兵士を雇うことができないので、そうなるとみすみす攻撃されるのを待つか、外国の力を借りてその影響下に置かれるか…と、ますます状況は悲惨に。

フィレンツェが外国の脅威に脅かされ続けず、安定した国になるためには強大な軍事力とそれを率いることができる強いリーダーが必要である、とマキャヴェッリは考え、そのような主張をしました。

さらに『君主論』においては

マキャヴェッリ
マキャヴェッリ

君主たるもの、善人であってはいけない。気前のいい人物であってもいけないし、必要に応じて悪徳も行使しなければいけない

という主張もしており、これが「目的のためには手段を選ばない」という意味で使われるマキャベリズムという言葉の元になりました。

イタリア人ガイドマーク先輩
イタリア人ガイドマーク先輩

マキャヴェッリの本来の主張はそうではなくて、「よりよい国を治めるための政治目的なら、どんな手段や非道徳的な行為でも許される(結果として国家が発展することに役立つのであれば)」ということなんだ!OK?

ちなみに、『君主論』で理想のリーダーのモデルとされたのは、時代の風雲児チェーザレ・ボルジアだったとされています。

Azu
Azu

チェーザレについてはこちらの作品が面白く読めますよ!マキャヴェッリもちらっと出てきます♪ちなみに監修は上のダンテ論の著者でご紹介した原基晶先生です!

『チェーザレ・ボルジア=破壊の創造者』1~12巻 『チェーザレ・ボルジア~破壊の創造者』15世紀末イタリアが舞台のおすすめ漫画!

マキャヴェッリについては、イタリア史を基にした作品が多数出版されている、塩野七生氏の物語が読みやすく面白いです!

ロッシーニのお墓

最後にご紹介するのはこちら、アドリア海沿いの小さな町ペーザロ出身のオペラ作曲家、Gioachino Rossiniジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)のお墓です!代表作は『セビリアの理髪師』『ウィリアム・テル』『チェネレントラ』など、その他多数。

お墓の作者は19世紀フィレンツェ生まれのジュゼッペ・カッシオーリ。フィレンツェのドゥオモのファサード右側の扉の作者でもあります。

実はこのお墓、すでに見てきたようにフィレンツェの偉大な有名人のお墓が多数並ぶサンタ・クローチェ聖堂の中で、最後に建てられたもので、1902年に除幕されました(完成は1887年)。

ジョアキーノ・ロッシーニのお墓
Azu
Azu

こちら、私の一押しの美しいお墓です!!

なかなかお洒落な装飾が施されているので、じっくり見てみましょう!

まず、一番上には本人の胸像。ばばーんとカーテンが開いて、\ご本人登場!/といった趣です。

ジョアキーノ・ロッシーニのお墓(部分)

このカーテンの装飾も、大理石なんですよ!すごくリアルですよね。

ジョアキーノ・ロッシーニのお墓(部分)
旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

おぉーほんと!風で揺れ動きそうな勢いだね!金の装飾もゴージャスなカーテンって感じ♡

そして、ロッシーニの胸像の下に横並びに続くレリーフのモチーフは、ト音記号。楽しい音楽が聞こえてきそう!

そして中央には「GIOACHINO ROSSINI」と名の刻まれた棺があり、そこに向かって哀悼の意を表しているのは『音楽」の擬人像。


さらに一番下には「PESARO(ペーザロ)」「FIRENZE(フィレンツェ)」「PARIGI(パリ)」の3つの町の名前が刻まれており、それぞれ生まれ故郷、埋葬場所にして初オペラ上演場所、逝去した町を表しています。

ジョアキーノ・ロッシーニのお墓(部分)
イタリア人ガイドマーク先輩
イタリア人ガイドマーク先輩

ちなみにロッシーニはベートーヴェンと同時代の人!ベートーヴェンは彼の才能を評価し、『セビリアの理髪師』を絶賛しているんだよ!



ロッシーニは音楽的にも大変な成功をおさめましたが、美男でたくさんの女性と浮名を流したとか、美食家で自分でも料理を創作していたとか、数々のエピソードが残る濃い人生を送った人でした。

イタリア人ガイドマーク先輩
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「ロッシーニ風」と言われる料理は彼の名前から命名されているんだ!牛フィレ肉、フォアグラ、トリュフなどを組み合わせたリッチな料理が有名だね!さらに本人とは関係ない『ロッシーニ・バーガー』というニューヨークで生み出されたものまであるんだよ!OK?

旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

音楽ができて女好きで料理好き…イタリア人男性って感じだね!!笑

イタリア人の人生観を表すとされる言葉「Mangiare, Cantare, Amoreマンジャーレ・カンターレ・アモーレ」を地で行ってる感じですね。


ということで、まだまだ見どころはたくさんあるサンタ・クローチェ聖堂ですが、ひとまずそのキャッチコピー『フィレンツェのパンテオン』の由来をご紹介しました!

訪れる際は、ぜひ、それぞれのお墓の前で、偉大な人たちの功績に思いを馳せていただけたらなーと思います…♪

営業時間・チケット情報などはこちら

サンタ・クローチェ聖堂 フィレンツェ サンタ・クローチェ聖堂