フィレンツェって歩いてるとほんとにメディチ家でいっぱいだよね!
本当に、フィレンツェの街を歩いていると、至るところにメディチ家の関係する建物、美術品、エピソードが出てきます。
明日使えるムダ知識?メディチ家の紋章、意味と歴史秘話。建物名ならメディチ・リッカルディ宮殿、メディチ家礼拝堂、
エピソードなら
メディチ家のコジモ・イル・ヴェッキオが閉じ込められた独房
ヴェッキオ宮殿の「アルノルフォの塔」の歴史、なかなか味があって面白い。メディチ家のコジモ1世が命じて作らせた「ヴァザーリの回廊」
フィレンツェが誇る、ヴェッキオ橋。「古い」だけあって、歴史エピソードてんこ盛り!メディチ家のフェルディナンドが集めた貴重な楽器コレクション
アカデミア美術館で出会える音楽史。ピアノの発明はフィレンツェだった!などなどなどなど、挙げ出したらきりがないくらい。
ちなみにメディチ家って、いまどうなってるの?まだ生きてるの?もう断絶したの?
さて、フィレンツェの街を芸術の都として発展させたメディチ家。
その末裔はどうなったのでしょうか?
目次
メディチ家とは
メディチ家の祖先は、フィレンツェ郊外のムジェッロという地域にいたと伝えられています。
13世紀の終わり、金融業に従事するため、大きな街フィレンツェに出てきました。
最初に大きく成功を収めたのはジョヴァンニ・ディ・ビッチ(Giovanni di Bicci / 1360-1429)。
銀行家、また商人としてビジネスの才能に溢れた人で、ヨーロッパ中にメディチ銀行の支店を出しました。
ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチ~華麗なるメディチ一族の創始者このジョヴァンニの息子がコジモ・イル・ヴェッキオ(Cosimo il Vecchio / 1389-1464)、父ジョヴァンニと同じく、いやそれ以上に才能を持った人で、敵も多かったですが強い力でフィレンツェを繁栄に導きました。
ここから彼らの血筋が脈々と続いていき、一時的にフィレンツェの街から追放されることがあったりもしましたが、約350年後、1737年にフィレンツェの支配権がロレーナ家に移るまで、メディチ家の時代が続きます。
この間、様々なタイプの君主が登場しますが、先ほどのコジモ・イル・ヴェッキオやロレンツォ・イル・マニフィコ(Lorenzo il Magnifico / 1449-1492)やコジモ1世(Cosimo I / 1519-1574)を中心として、どの君主も芸術に深い理解を示し、積極的に保護しました。
代々それぞれに興味のある分野が違ったから、結果的に色々な種類の芸術品が集まったのよ!絵画、彫刻、ミニチュア、宝石、動植物、武具、科学、建築、などなど。それに好きな時代も色々だったからアンティークや最先端のものなど、本当に多種多様なコレクションが集められたの
彼らの収集したコレクションは、フィレンツェの宮殿や教会を始め、ローマやフィレンツェ近郊に点在していたメディチ家の別荘などに置かれていました。
これらは代々、子孫たちに受け継がれていきます。
お金があって、趣味がよかったからそれだけ色々集められたのね!
「最後の女性」アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ
さて、それではメディチ家の末裔はどうなったのでしょうか。
実は、本家筋と言いますか、この13世紀以降にフィレンツェにいたメディチ家の血筋は1743年に最後の女性が亡くなったことにより絶えてしまいました。
その女性とは、アンナ・マリア・ルイーザ・デ・メディチ(Anna Maria Luisa / 1667-1743)。
メディチ家出身の最後のトスカーナ大公となったジャン・ガストーネ(Gian Gastone / 1671-1737)の姉です。
アンナ・マリア・ルイーザ、若い頃
アンナ・マリア・ルイーザは、コジモ3世とマルゲリータ・ルイーザ・ドルレアンの娘として生まれました。
彼女が生まれた時、両親はすでに不仲であまり幸福でない少女時代を過ごしたようです。
彼女自身は父譲りの厳格で信心深い性格でしたが、とても聡明な女性でした。
20歳のとき、プファルツ選帝侯(現在のドイツ西部を支配する宮廷大臣のような地位)の、ヨハン・ヴィルヘルムと結婚します。
結婚式のときに同席者が残した彼女に関する記録がこちら。
身長が高く、血色のよい顔で目は大きく表情豊かで髪と同じく黒、口は小さくふくよかな唇と象牙のように白い歯をしている。
-Wikipedia 「Anna Maria Luisa」
主役だから良い表現をしたのかもしれませんが、結構な美人さんですね!
しかし残念ながらこの結婚で子宝に恵まれず、1716年、夫と死別したアンナ・マリア・ルイーザは、フィレンツェに戻ってきました。
アンナ・マリア・ルイーザ、フィレンツェに戻る
この時のフィレンツェ、トスカーナ大公国は、かつての勢いは既になく、滅亡を待つのみ、といった状態でした。
なぜなら彼女の兄、大公子フェルディナンドは子を残さず既に亡くなっていて、弟ジャン・ガストーネにも子がいない上に自堕落な生活にふけるばかりで父コジモ3世としては不安でしかなかったの…
ちなみに二人とも子がなかったのは、兄弟とも同性愛者だったからと言われているわ
そこでコジモ3世は、彼女をトスカーナ大公国の次期当主とすべく、法律を変えようと尽力しますが、ヨーロッパの他の君主国が揃ってNOをつきつけため、失敗。
コジモ3世の次は、予定通り彼女の弟ジャン・ガストーネが継ぎました。
ピッティ宮殿で暮らした最後の人物
フィレンツェに戻ってからは、アンナ・マリア・ルイーザは弟とともにピッティ宮殿で暮らしました。
また、芸術をとても愛していたため、様々な芸術家に美術品を注文します。
メディチ家礼拝堂の「君主の礼拝堂」の放置されていた装飾が完成に近づいたのは彼女のおかげだし、サン・ロレンツォ教会の主祭壇前のクーポラ装飾も注文しました。
20年後の1737年、弟ジャン・ガストーネが子を残さず、先にこの世を去ったとき、彼女は70歳。メディチ家最後の女性となりました。
このとき、メディチ家の貴重な芸術品、建物、研究品など、貴重なコレクションを含む全財産を相続します。
トスカーナ大公国の地位だけはロレーナ家のフランツ・シュテファン(オーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジアの夫、マリー・アントワネットの父)が引き継ぎました。
そしてそれから6年後の1743年2月18日、彼女自身もこの世を去りました。
彼女のお墓は、メディチ家礼拝堂の地下墓室にあります。
アンナ・マリア・ルイーザの功績
では、彼女が世を去った後、これらの貴重なメディチ家の財産コレクションは誰のものに?
普通に考えたらロレーナ家のもの…?
いいえ、これこそがアンナ・マリア・ルイーザの最大の功績なんです。
「家族の協定」
彼女は弟ジャン・ガストーネが死去した1737年に、ロレーナ家との間に「家族の協定(Patto di Famiglia)」と呼ばれる遺言を残します。
その内容が、このようなもの。
(ロレーナ家は)…ギャラリー、絵、彫刻、書物、宝石やその他の貴重なものを動かしたり、大公国や街の外に持ち出したりできず、国民でも外国人でも、誰もがそれを称賛できるような状態に留め置かなければならない。
Firenze Curiosita’より引用、翻訳
彼女はこれ以上ないくらい貴重な品々のコレクションを、誰でも見たい人が自由に見て称賛できる状態にすること、という条件をつけて、すべてのメディチ家の財産をトスカーナ大公国に贈与したのです。
しかも、「ひとまとめの財産の中から、いかなる品物も抜き取られてはならない」という条件も付けられていました。
メディチ家の末裔としてこれ以上ないくらい偉大な行動を起こした彼女のおかげで、今日、フィレンツェで見ることのできるたくさんの芸術品はトスカーナ大公国内に残されたのです。
例えば、ウフィツィ美術館で見られるこれらの作品、
サンドロ・ボッティチェリ作「春(プリマヴェーラ)」まさに春の喜びが溢れた幸せいっぱいの名画!
フィリッポ・リッピ「聖母子と天使たち(リッピーナ)」美しい聖母マリアの秘密とは?
ティツィアーノの「フローラ」は、どうしてこんなに魅力的なのか。
コジモ1世がお気に入りだった古代美術、
その他、コジモ3世がローマから運んだミケランジェロのこんな作品や、数々のラファエロ作品だって!!
もし、彼女がこれをしていなかったら。そして、もしもロレーナ家の人々がもっと愚かでこの協定を守らなかったとしたら、現在フィレンツェにある貴重な芸術品はほとんど残っていなかったかもしれないわ
フィレンツェ市は彼女のこの偉大な功績に感謝し、命日2月18日を「アンナ・マリア・ルイーザの日」として市立の美術館とメディチ家礼拝堂をこの日はすべて無料開放します。もちろん、彼女を称える式典も。
さすが、芸術の都だね!!
現在のメディチ家
というわけで、13世紀フィレンツェに現れた初代メンバーから数えて約350年、「最後の女性」アンナ・マリア・ルイーザをもってトスカーナ大公国のメディチ家は終わりました。
が、現在もまだメディチ家の末裔が存在するのです。
どういうこと?アンナ・マリア・ルイーザにも兄弟にも子どもはいなかったんだよね?
そうなんです。が、現存するメディチ家子孫の家系は、遡ること約500年前から続く家系。
トスカーナ大公コジモ1世が家督を継ぐ前にメディチ家の当主となったのがアレッサンドロ・デ・メディチ(Alessandro de’ Medici / 1511-1537)。
この人はメディチ家出身のローマ教皇クレメンテ7世の庶子(※)として生まれましたが、色々と素行が悪く、最終的にはメディチ家傍系出身のロレンツォ(ロレンツァッチョ)に暗殺されてしまいます。
※ローマ教皇は生涯独身なので建前上、子どもがいてはいけないので、名目上、いとこ甥のウルビーノ公ロレンツォの子として記録。
彼は妻との間ではなく、別の女性との間に3人の子をもうけていたのですが、このうちのジュリアという娘が産んだ子から続く家系が現存するメディチ家だそうです。
すごい…!歴史ある一家の末裔ってどんな気分なんだろう…
メディチ家礼拝堂観光情報
アンナ・マリア・ルイーザまでのメディチ家メンバーが代々眠るのはサン・ロレンツォ教会とメディチ家礼拝堂。
外観や地下祭室の質素さに対し、2階に上ったときの「君主の礼拝堂」の圧巻の美しさに言葉を奪われます。
アンナ・マリア・ルイーザのおかげで芸術的な名品の残るウフィツィ美術館やピッティ宮殿の観光とともに、メディチ家礼拝堂に訪れたら、彼女の功績を思い出してみてくださいね。