ルネサンス三大巨匠のひとり、ラファエロ・サンツィオ。
彼は「聖母の画家」と呼ばれるほどたくさんの聖母子の絵を残しました。
多くの聖母子を描いた作品の中でも、とりわけ有名で人気のあるこちらの作品「小椅子の聖母」は、描かれている人物やオブジェクトがわずかながら、とても人目をひく表現になっています。
そこにはきっと、作者が最も力を入れたであろう、親子の愛情表現が込められています。
目次
「小椅子の聖母」はこうして生まれた
作品の注文主

小椅子の聖母
ラファエロ・サンツィオ, 1513-14
パラティーナ美術館, フィレンツェ
さてこちらの作品「小椅子の聖母/ Madonna della seggiola」ですが、実は注文主が誰だったのか、はっきりはしていません。
描かれたのは1513年から1514年頃とされています。
ただ、描かれているわずかな手がかりから、注文主が推定されています。
ひとつは、椅子の背もたれの部分。
この椅子は教皇庁で使われていたものとされ、そこから教皇庁関連の人物であろうこと。
また、聖母の頭にターバンのように巻きつけられた絹織物は当時の上流貴婦人のあいだで流行していたもの。
さらに、この絵の形、円形ですよね。これはフィレンツェの伝統的な絵画に多く見られる形。
これらのことから、注文主は教皇レオ10世ではないかとされています。

ジョヴァンニ・デ・メディチ/教皇レオ10世
彼はフィレンツェのメディチ家の出身で、ロレンツォ・イル・マニフィコ(豪華王)の次男。
レオ10世は、ラファエロが大のお気に入りで、他にも色々な作品を彼に注文しています。
なので、きっとレオ10世が描かせたこの傑作をフィレンツェの家族のもとへ送らせたのでしょう。
モデルは一般庶民?
ラファエロがこの絵を描くときにヒントにしたとされるもののエピソードがあります。
この絵を描いた頃、ラファエロはローマに滞在していました。
ある日、ローマの街なかを歩いていたラファエロは、とある小道で一組の親子を見かけます。
小さな赤ちゃんをこの上なく愛おしそうに抱くお母さん、それを見たラファエロは、すぐさまその二人の姿をスケッチしたとか。
この話は全く裏付けもなく創作である可能性も高いですが、でもこの愛情たっぷりの聖母の表情を見ていると、実際にそういう親子がいてもおかしくはないなと感じさせられますよね。
「小椅子の聖母」のみどころ
画家にはそれぞれに得意ジャンルがあると思います。
例えば、ミケランジェロなら筋肉たくましい成人男性。
ティツィアーノは色気たっぷりのセクシーな大人の女性、
ブロンズィーノなら高貴な女性。
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ラファエロは、赤ちゃんを描くのがとっても上手。
生まれたばかりから、よちよち歩きぐらいまでの子どもの表現が素晴らしいです。
深い愛情が表現された聖母子
この絵でも中心にいるイエスは、まるで実際にこういう子どもがいそうなくらい、ムチムチとした体つき。ぽっちゃりした太ももと歩くとすぐにこけちゃいそうなちっちゃなあんよ。
ガイド学校の先生カテリーナ
それを抱きかかえる聖母マリアも、実在のお母さんのように、とても愛おしそうにしっかりと赤ちゃんのイエスを抱っこしていますね。
そしてこちら(鑑賞者)側をカメラ目線で見つめています。
まるで
聖母マリア
とでも自慢しているかのよう。
ただ、目元に注目すると少し悲し気なまなざしなのに気づきます。
これはその他の聖母子を描いた作品同様、いずれ来るであろう我が子に与えられている運命を既に知っているから…
そう考えると、こんなにしっかりと抱いているのは、ある意味
聖母マリア
という気持ちの表れにも思えます。
右後ろにいるのはちびっ子洗礼者ヨハネです。まるで二人兄弟のお兄ちゃんにも見えますが、その瞳は心配げに聖母マリアを見つめています。
色の視覚的効果
この絵が全体的に愛情表現を感じるのは、マリアがイエスのことをしっかりと抱っこしているから、だけではありません。
実はラファエロはここにひとつの視覚的効果を仕込んでいます。
中心にいるイエスは黄色の服を着ています。
そして、普通、聖母マリアは赤い服の上に青いマントを羽織って表現されますが、この作品ではさらに緑のストールのようなものをかけています。
Azu
先ほどお話しした、注文主が高貴な人物だったのであろうことと関係がありそうですが、豪華な刺繍から見てもこのストールもきっと高価な絹織物でしょう
結果的に色の動きは、中心から外に向かって、暖色から寒色へと移り変わります。
中央部に暖色を置くことによって、中心部に温かみつまり愛情が表現されているように感じられるのです。
この絵はラファエロの作品の中でも、特に親子の愛情を強く感じられるものですね。
作者ラファエロ・サンツィオ
ラファエロの生い立ち
作者のラファエロ・サンツィオ(Raffaello Sanzio/ラファエロ・サンティとも)は、1483年、イタリア中部のマルケ州ウルビーノという小さな村で生まれました。
8歳の頃、母を亡くします。
ラファエロの父、ジョヴァンニはほどなく再婚し、妹エリザベッタが生まれます。
父も同じく(宮廷)画家だったということ以外、家族についてあまり詳しいことは伝わっていませんが、幼くして実のお母さんを亡くしてしまったことは少なからず影響したのかもしれません。
実の母を慕う愛情から、多くの聖母子を描き続けたともいわれています。
画家としての人生
さて、ウルビーノ公国の宮廷画家である父に絵の手ほどきをうけたラファエロは、ペルジーノに弟子入りします。
出身地のウンブリアの風景そのものの、のんびりとした温和な性格であったペルジーノは、画風も性格が表れた優しい穏やかな作品が多数。初期のラファエロはこの作風の影響を多大に受けています。

ピエタ
ピエトロ・ペルジーノ, 1493-94頃
ウフィツィ美術館, フィレンツェ
↑師匠ペルジーノの作品

聖母の結婚
ラファエロ・サンツィオ, 1504
ブレラ絵画館, ミラノ
↑ラファエロの作品
ラファエロは若い頃にフィレンツェやローマなど、多くの街に旅をしましたが、その中でも特に1500年代初め頃滞在したフィレンツェで、レオナルド・ダ・ヴィンチの作品から多くを学んでいます。
Azu
ミケランジェロとの出会い
ラファエロはフィレンツェには1504年からの4年間ほど滞在し、それからローマへと旅立ちました。
この時期のローマにはミケランジェロもいました。


ラファエロはミケランジェロの技術や作風を積極的に勉強して取り入れましたが、一方のミケランジェロはラファエロのことを激しく嫌っていたそうです。
ガイド学校の先生カテリーナ
ラファエロは父が宮廷画家だったこともあって、幼い頃から宮廷での社交術を身に着ける機会に恵まれ、世渡り上手だったようですが、ミケランジェロは典型的なアーティスト気質で人付き合いが下手。いや、それ以前に人嫌いだったというウワサも。
そんなわけで、ミケランジェロはラファエロのことを
ミケランジェロ
といってケチョンケチョンにけなしていたそうです。
ラファエロの死
ところでミケランジェロは89歳という当時としては非常に長寿を生き抜きましたが、8歳年下のラファエロはわずか37歳で早世します。
にも関わらず、ラファエロの残した作品数はかなりのもの。
Azu
ラファエロが亡くなった理由ははっきりとはわかりませんが、一説によると
遊び過ぎ(!)
なんと、女性との情事のあとに熱病にかかったものの、恥ずかしかったのか医師に体調をくずした理由をきちんと説明しなかったので間違った治療をされたことによって命を落としたとか…もっともこの説には異論もあるようですが。
なかなかの美男で世渡り上手だったラファエロ。
旅好きナナミちゃん
で、とても女性関係も派手だったようで、婚約はしたものの結婚はせず。
それでも、彼の葬儀にはたくさんの人が弔問に訪れたようで、やはり人間として魅力的な人物だったことは間違いないようです。
本作品「小椅子の聖母」のほか、「大公の聖母」「ヴェールの女」などラファエロの傑作がたくさん見られるのはこちら
パラティーナ美術館、近代美術館、大公たちの宝物殿、衣装博物館(ピッティ宮殿)