16世紀末のイタリアで活躍した画家、カラヴァッジョ。
その大胆な構図や作風から「光と影の画家」として有名な彼ですが、今回はそんな彼の作品のうちでも貴重な作品、「イサクの犠牲」をご紹介します。
目次
カラヴァッジョという画家を知っていますか?

カラヴァッジョの肖像
オッタヴィオ・レオーニ, 1621
マルチェッリアーナ図書館, フィレンツェ
本名はミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョといいます。
そう、あのダヴィデくんの生みの親、ミケランジェロ・ブオナローティと同じ名前!
天才っぷりもどこか通じるものがあります。
日本でも2010年にその人生が映画公開されました。
彼の作品は、主に光と影の大胆なコントラストが目を引き、それ以前の時代にはあまりなかった雰囲気でした。
例えば果物の静物画を描くときに、ちゃんと枯れた葉や腐った部分も表現したり。

果物かご
カラヴァッジョ, 1596
アンブロジアーナ絵画館, ローマ
その時代には絵に表すのは美しいものに限る、という風潮だったから
当時の人
とけなされまくりました。
だから最初の頃は全然売れなかったんです。
でも彼は自分で見たものだけ、現実的なものしか描きたくないと、主義主張を貫きました。
次第にそんな彼の才能を認めてくれる人が現れます。
若い頃の作品はこんな雰囲気でした。

果物かごを持つ少年
カラヴァッジョ, 1593頃
ボルゲーゼ美術館, ローマ
これは、22歳頃の作品。
ボッティチェリみたいに華やかな画面ではないけれど、彩豊かでみずみずしい表現ですね!
しかしあることをきっかけに、作風がガラリと変わります。
Azu
後半の作品はこんな感じ。これは38歳頃。

ダヴィデとゴリアテ
カラヴァッジョ, 1609頃
ボルゲーゼ美術館, ローマ
今日ご紹介する「イサクの犠牲」は大体、20代半ば~後半ぐらいの作品です。
本日ご紹介する「イサクの犠牲」、なぜ貴重なの?
さて今日のメインのお話はこちらの作品、「イサクの犠牲」。

「イサクの犠牲」
カラヴァッジョ, 1603
ウフィツィ美術館, フィレンツェ
登場人物にまさかのゆるキャラ!?
描かれている内容は、旧約聖書の中の次のような場面です。
神はアブラハムに言われた、「あなたの愛するひとり子を連れてモリヤの山へ行き、燔祭(はんさい=いけにえ)として捧げなさい」
翌朝アブラハムは、何も知らないイサクを連れて山を登った。山上に着いたとき、イサクが「神への燔祭の子羊はどこですか」と問うと、アブラハムは「何も心配するな、すべて神が用意してくださる」と答えた。
たき火の準備をし終わったアブラハムは、息子イサクを縛りその上に乗せ、神に捧げようと刃物を手に取って子を殺そうとしたとき、天からの声がみ使いを通して聞こえた。
「アブラハムよ、子に手をかけてはならない。あなたがひとり子をさえ私に捧げる覚悟であるのを知って、私はあなたが神を恐れるものであることを知った」
アブラハムが目をあげると藪の中に一頭の羊がいた。アブラハムは行ってその羊を捕え、イサクに代えて燔祭として神に捧げた。
ひとり息子イサクは、年老いてから生まれたアブラハムが溺愛していた子どもです。
神はそんな大切な息子を、自分への信仰心を試すために犠牲にせよと命じたのでした。
文学少女トモミちゃん
この主題は15~16世紀頃、好んで選ばれる主題のひとつでした。
フィレンツェでも、ギベルティとブルネレスキが、サン・ジョヴァンニ洗礼堂の扉を製作するためのコンクールで争ったときの作品がバルジェッロ博物館に残されています。

絵では最も目を引くのが中心のアブラハム、そして叫び声をあげているかのようなイサク、いままさに止めに入ろうとしている天使。
そして…そして、右端にいる…ひつじ!!
ひつじ
今から自分が犠牲になることなんて夢にも思っていないかのような、のんびりした表情が可愛すぎます!
Azu
ガイド学校の先生カテリーナ
注目ポイントはこんなところも
これが貴重な作品である訳は、背景の表現にあります。
この作品においてはローマ近郊の田舎の風景が描かれています。
カラヴァッジョは「光と影の画家」の名の通り、いつも背景は黒く、主題である人物やオブジェクトが強調されるような構図を好んで描きました。
彼がこのように自然な背景を描いた作品は、実はたった二枚しかありません。
この「イサクの犠牲」と、ローマのドーリア・パンフィーリ美術館にある「エジプトへの逃避途上の休息」だけなんです。

エジプトへの逃避途上の休息
カラヴァッジョ, 1595-96
ドーリア・パンフィーリ美術館, ローマ
その人生を知ると、確かにこんな牧歌的な背景を描く人ではないな、と思わせられます。
作者カラヴァッジョ、通称「光と影の画家」はこんな人でした
カラヴァッジョが生まれたのは、イタリア北部のミラノ。
実は「カラヴァッジョ」という名前はニックネームのようなもので、本名のミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョというのは「カラヴァッジョ村から来たミケランジェロ・メリージ」の意味です。
文学少女トモミちゃん
その通り、よくできました!!(*´▽`*)
カラヴァッジョ幼少の頃
彼はミラノで生まれたのですが、当時、流行していたペストの感染から逃れるため、カラヴァッジョ村に引っ越します。
しかし、6歳のときに父と祖父と叔父を、13歳のときに母を亡くし、天涯孤独となります。
それでシモーネ・ペテルァーノという人の工房へ修行に入りました。
ガイド学校の先生カテリーナ
そして18歳のとき、絵で成功しようとローマへ旅立ちます。
野望を抱いてローマへ
ローマにやってきたカラヴァッジョ。
意気揚々と自分の作品を引っ提げてあちこちの工房へ売り込みに行きますが、どこでもすげなくされてしまいます。
ガイド学校の先生カテリーナ
それでも次第に評価してくれる人が現れ、少しずつ絵は売れていきます。
が、とても激情的で怒りっぽく、よくもめ事を起こしていたようです。
また破天荒な性格でした。
例えば、当時、描かれるのは主に宗教画で、聖人や聖女が多く登場するものでした。
しかし若きカラヴァッジョはモデルを雇うお金がありません。
そこで彼は画家仲間の友人や、なじみの娼婦など、いわば社会的身分の低い人たちをモデルにそれらの絵を描いていたのです。
しかしこのことは、
教会関係者
と注文者の怒りを買ってしまい、作品の受け取りを拒否されることもありました。
人生の過ちと転落、逃亡生活へ
1606年、カラヴァッジョ35歳のときのこと。
相変わらず激情的な性格だった彼は、テニスの試合中ふとしたことで口論となり、誤って相手の青年を殺してしまいます。
当時でも、殺人は大罪。
カラヴァッジョはすぐさま逃亡生活に入り、ローマからナポリ、マルタ島、シチリア島と転々とします。
その過程で各地に作品を残していきました。
最終的には、ポルト・エルコレというトスカーナの街で、感染症のため亡くなったと伝えられています。
ガイド学校の先生カテリーナ
文学少女トモミちゃん
逃亡の前後で作風が変化する
ガイド学校の先生カテリーナ
例えば

眠るアモレ
カラヴァッジョ, 1608-09
パラティーナ美術館, フィレンツェ
タイトルは「眠るアモレ」ですが、まるで死んでいるかのよう。
事実、カラヴァッジョはこの作品を描くときに子どもの遺体をスケッチしたと言われています。
また、逃亡生活以前と以降で同じ主題の作品を見比べると、その違いがとてもよくわかります。

エマオの晩餐
カラヴァッジョ, 1602
ナショナル・ギャラリー, ロンドン

エマオの晩餐
カラヴァッジョ, 1606
ブレラ美術館, ミラノ
やはり長年にわたる逃亡生活は、決して楽なものではなかったのでしょうね。
Azu
この作品が見られるのはこちら!
