フィレンツェ最古の橋、ヴェッキオ橋。
イタリア語でPonte Vecchioと呼ばれ、意味はそのままずばり「古い橋」。
なんたってそのもともとの歴史は2000年ほど前にさかのぼることができるんです!
そしてこのまたとない、美しい姿。
わ~、ディズニーシーみたーい!!
…とよく言われるんですが、こっちが先でーす!!!
ディズニーシーにも「ポンテヴェッキオ」と呼ばれる橋がありますが、これは外観がそのままこのフィレンツェのヴェッキオ橋をヒントにつくられていますね。
フィレンツェの人からのみならず、世界中の人に称賛され愛されてきたヴェッキオ橋。日本でも人気でレストランやジュエリーショップの名前に使われています。
さて、それでは、古い古いヴェッキオ橋、歴史エピソードをご紹介します!
目次
ヴェッキオ橋とは
ヴェッキオ橋はフィレンツェを流れるアルノ川にかかる古い橋。
ドゥオモやヴェッキオ宮殿を中心とする川より北側の中心地と、ピッティ宮殿を中心とする川の南側を結ぶ、最も川幅の狭いところに架けられています。
現在は橋の上にはたくさんの貴金属、アクセサリーを売る工房・ショップが入っています。
実はこの場所も、2016年公開の映画「インフェルノ」で逃げるゾブリスト、追う男たち、カラビニエーリがバイクで走るシーンなど、いくつか使われました。
ヴェッキオ橋の歴史①1345年以前
ポンテ・ヴェッキオの始まり
一番初めに架けられたヴェッキオ橋は、紀元後1世紀(西暦1~99年)には既に存在していたとされています。
ただし、その時は現在の場所ではなく、もう少し山側、つまり東寄りに架けられていたそうです。
記録では西暦123年にローマ皇帝ハドリアヌスが、ローマとフロレンティア(当時のフィレンツェ)を結ぶ「ヴィア・カッシア」という道を整備した際に現在の場所に橋が架け直され、それは街への唯一の入り口となりました。
長らく南側からフロレンティアの街に入る手段はひとつだけだったのですが、1218年に2番目の橋、カッライア橋が架けられ、これを「新しい橋(Ponte Nuovo)」と呼ぶようになりました。
そしてもとからあった橋(現・ヴェッキオ橋)は「古い橋」の名で呼ばれるようになったということです。
ヴェッキオ橋の歴史②1345年~1593年
現在のポンテ・ヴェッキオになったのは1345年のこと。
つまり、現在の橋は700年選手なんです!!!
アルノ川は歴史上、何度も大洪水に見舞われており、しょっちゅう橋は流されていたのですが、1333年の大洪水で壊滅的に破壊されてしまいました。
11月4日、あれから50年。フィレンツェの街とアルノ川の大洪水。そしてこの後、12年の歳月をかけて再建。
この時の橋が、現在もその姿を残している美しいヴェッキオ橋です。
それまでは橋脚部分だけが石で、大部分は木でできていたのですが、再建時に石で造りなおされ、おかげでその後の洪水にも負けないぐらい頑丈になりました!
こうして無事、架け直され出来上がったのが現在も見られるヴェッキオ橋の姿です。
じゃあ、1345年からずっとこの姿なんだ?
Nooooooo, ヴェッキオ橋の歴史の古さ・深さを甘く見てはいけない!!
橋の上のお店
現在の橋の上には、貴金属やジュエリーを売る工房・ショップがずらりと並んでいますが、実はここ、昔はお肉屋さんや八百屋さんでした。
えーっ!全然、イメージが違うねー!
ここにお肉屋さんなどが集まることになったのは理由があります。
それ以前は橋の北側、つまり街の中心地で営業していたお肉屋さんたちですが、やはりどうしても仕事柄、ニオイが発生してしまいます。
それで街の人たちが生活するのに耐えられない、ということで、1345年に新しく架けられた橋の上にお店を移すことになったのです。
橋の上の回廊
それから、橋の特に東側の部分は2階(またはそれ以上)建てになっていますが、こうなったのは16世紀半ばのこと。
それ以前の姿(予想)はこんな感じ。
あれっ、ずいぶんシンプルだねぇ~
これが1565年、現在みられるこの姿に(ほぼ)なります。
この1565年、トスカーナ公(※この当時はまだトスカーナ公。1569年~トスカーナ大公となる)コジモ1世が、跡継ぎたる長男フランチェスコ1世の結婚式の機会に発注した廊下、それが今日「ヴァザーリの回廊」と呼ばれるもの。これはヴェッキオ宮殿から始まり、ウフィツィ美術館の中を通り、ピッティ宮殿までを結ぶ全長約1kmの廊下です。
えっ、結婚式のために廊下…?しかも1kmとか、長くない…?
それもそのはず、実はこのフランチェスコ1世のお嫁さんジョヴァンナ・ダウストリアは、神聖ローマ皇帝の妹にあたる人。かのハプスブルク家から大事なお嬢さんをもらい、ヨーロッパ随一の宮廷との姻戚関係が成り立つともなれば、気合の入りようが違います!
というわけで注文を受けたヴァザーリは1年足らずでこの大工事を仕上げました!
イタリアかつこの時代の建築としては画期的な速さといっていいでしょう。
16世紀の偉大な美術史家、ジョルジョ・ヴァザーリ。トスカーナ大公も絶大な信頼を置いた『総合芸術家』の人生とは?そしてこの廊下、仕事場であるヴェッキオ宮殿と住居であるピッティ宮殿を結ぶ通路として以降のメディチ家のメンバーに愛用されました。
なんたって、雨に濡れない!! 人目につかずに移動できるから、暗殺の心配もない!!
こちらは、途中にある『マンネッリの塔』。
回廊建設にあたって最後まで立ち退きに同意しなかったので、この塔をぐるりと回って回廊は設置されました。
こちらはフィレンツェ最古の教会のひとつ、サンタ・フェリチタ教会。
メディチ家の人々はこの教会の前に設置された回廊からミサに参加できました。
フェルディナンド1世の改革
この回廊を愛用したのが、コジモ1世の息子、フェルディナンド1世。彼は父の後を継いでトスカーナ大公になった兄、フランチェスコ1世(結婚式のお祝いでこの回廊を作ってもらった長男)の次にトスカーナ大公になった人物です。
ですが、彼にはどうしても気に入らないことがありました。
それは…
せっかく誰にも邪魔されずに景色を楽しみながら通れる便利な通路!なのに…、なのに…、ニオイが!!!泣
そう、かつて街中でニオイがひどく街の人たちの生活に支障があるということで橋の上に集められたお肉屋さんたち。
しかし今度は橋の上を通る高貴な人の意に沿わない、とまたもや橋から追い出されてしまいます…
かわいそう…!!!
こうして1593年、お肉屋さんと、橋のふもとに集まっていたお魚屋さんは、現在の共和国広場(レプッブリカ広場)がある場所に集められ、そこはのちにMercato Vecchio(旧市場)と呼ばれるようになりました。
ここは19世紀終わりまで営業していたんだ!!
お肉屋さんたちを追い出したフェルディナンド1世は、橋の上の空き家に、代わりに貴金属の工房に入らせることにしました。
彼は宝玉や貴金属の細工をとても好み、趣味が高じて輝石製作所を作らせたほどです。
輝石作業所と美術館この輝石製作所は現在も引き継がれ、フィレンツェで活動しているんだ!!現在のフィレンツェにあるたくさんの美術作品を修復する仕事の多くは、この輝石製作所が担当しているぞ!!OK?
ちなみに…
この『ヴァザーリの回廊』、現在は美術館の一部となっていますが、改築作業に入っているため、一般公開はされていません。再開は2024年5月頃の予定です。
新生『ヴァザーリの回廊』、2024年内にオープン予定…!?ヴェッキオ橋の歴史③1593年~第二次世界大戦
チェッリーニの胸像
現在の橋のほぼ中心に開けた小さな広場には、フィレンツェの伝説のオラフォ(金細工師)ベンヴェヌート・チェッリーニ(Benvenuto Cellini, 1500-1571)の胸像があります。
彼はミケランジェロやコジモ1世と同じ時代に生き、オラフォの第一人者として活躍しました。
この胸像が設置されたのは1901年のこと。
チェッリーニの生誕400周年を祝って、ヴェッキオ橋の象徴である貴金属に関わる、この偉大な芸術家の胸像が設置されました。
ちなみに、この胸像のまわりにこんな風にたくさんの南京錠がつけられていますが、現在これは禁止されていますので、新たにつけたりしないでくださいね!
フィレンツェとナチス・ドイツの関係
チェッリーニの胸像の向かいに、三連の窓があります。
伝説によると、戦時中、盟友アドルフ・ヒトラーのために、ムッソリーニが命じて開けさせたとか。
なかったほうが間違いなく美しかったでーす
アルノ川の美しさを是非見せてあげようという気持ちだったのでしょうか…。
でもこの後、イタリアが先に降伏したことによって両者は仲違いしてしまい、ナチス・ドイツ的にはイタリアは憎むべき「裏切者」へと変わってしまいました。
その結果、フィレンツェはドイツ軍の占領下におかれることになってしまいます。
最終的に、ドイツ軍が引き上げるときには、フィレンツェのアルノ川にかかる橋を爆弾で破壊しながら去っていったという悲しい歴史があります(現在のものは戦後再建されました)。
ただ、このヴェッキオ橋だけは、当時のドイツ総督ゲラルド・ヴォルフが守り、爆破を免れました。
橋の中ほどにはこのことに感謝する石碑が掲げられています。
ヴォルフ、グラツィエーーーー!!