ルネサンスの街として有名なフィレンツェですが、実はその歴史は約2000年前にさかのぼることができます。そしてその長い歴史の中で、大きく姿を変えたもの、そして消えてしまったものもたくさんあります。
サン・ピエル・スケラッジョ教会はそんな「消えてしまった教会」のひとつ。
現在のヴェッキオ宮殿とウフィツィ美術館の間にあるニンナ通りから、わずかに当時の姿を残すアーチを見ることができます。
目次
サン・ピエル・スケラッジョ教会とは
ロマネスク様式の教会

サン・ピエル・スケラッジョ教会復元予想図
ウフィツィ美術館, フィレンツェ
この教会の歴史は約1000年前にさかのぼることができます。
ロマネスク様式の教会で、建設されたのは11世紀頃。
ガイド学校の先生カテリーナ
この当時において非常に重要な建物で、後に政治の中心地となるヴェッキオ宮殿(1299年建設開始)ができるまで宗教施設としての役割だけではなく、市民が集まって政治的なことを話す場所でした。
歴史上の有名人も演説を行った説教壇
その内部にあった説教壇(現在はフィレンツェ市内の別の教会に移動)でダンテやボッカチオが演説をしたと伝えられています。
旅好きナナミちゃん

二人の姿は、ウフィツィ美術館の1階部分の柱の壁がんに彫刻が飾られているのを見ることができます。
旅好きナナミちゃん
それは15世紀半ば、時のメディチ家の当主コジモ1世があるプロジェクトを思いついたことから始まります。
サン・ピエル・スケラッジョ教会が姿を消してしまった理由
コジモ1世が望んだ『公共の建物』
時は1560年。メディチ家当主コジモ1世は思いました。
コジモ1世
当時、色々な行政の機関や各組合の本部などはフィレンツェの街のあちこちに点在している状態でした。国の長である大公としてそれらを束ねるにあたり、コジモは日々移動しなければならなかったのです。
そこで、コジモはお気に入りの宮廷建築家、ジョルジョ・ヴァザーリに相談しました。
コジモ1世
ヴァザーリ
コジモ1世
そして、このプロジェクトで計画されたのがかの有名な現『ウフィツィ美術館』というわけです。だから、最初はここは美術館ではなく、仕事場だったわけですね。
Azu
ということで既にあったヴェッキオ宮殿の南隣の区画に新たな建物を作り、そこをオフィスとすることが決まりました。
建築は1560年にスタートしてコジモとヴァザーリの亡くなる1574年までに2/3ほどが完成します。

現在も確認できる教会の名残
ウフィツィ美術館の外観にかつての身廊の一部
現在は、ウフィツィ美術館の外壁に残されたわずかなかつての姿と、いくつかの資料でその姿を想像することができます。

上に見えるのは、ウフィツィ美術館とヴェッキオ宮殿を結ぶヴァザーリの回廊の一部。

左奥に見えるのがヴェッキオ宮殿、その手前にサン・ピエル・スケラッジョ教会。

教会は既に一部が切り取られています。

現在は、残った部分はウフィツィ美術館の中に取り込まれています。
ウフィツィ美術館入場後すぐのお手洗い(地下)に行く途中に、その一部を垣間見ることができます。
教会に由来する名残の「ニンナ通り」
現ヴェッキオ宮殿とウフィツィ美術館の間の道は、「ニンナ通り(Via della Ninna)」といいます。
この名前の由来も、ここにサン・ピエル・スケラッジョ教会があったことを示す手がかりのひとつ。
実はこの教会の内部には、チマブーエ作の美しい聖母子のフレスコ装飾があったとされています。
ガイド学校の先生カテリーナ
その聖母マリアのしぐさが赤ん坊のイエスを寝かしつけるようだったので、フィレンツェ人は親しみを込めて「子守歌(=ニンナ・ナンナ/Ninna nanna)の聖母」と呼んだそうです。
そしてそこから、この教会に接する通りはニンナ通り(Via della Ninna)と呼ばれるように。
ただ残念ながら、この作品は現存しません。
1298年、行政長官の宮殿(現ヴェッキオ宮殿)を作る際に隣接する道を広げるためこの教会は縮小され、このときにチマブーエのフレスコ画は壊されてしまいました。
旅好きナナミちゃん
ガイド学校の先生カテリーナ
この教会のように時代の都合で壊されてしまったものの他、火事や戦争で焼失してしまったり、またイタリアはいまある建築物を流用して(増築・改築など)別の建物を作ったり用途を変更したりすることも多いですから、建築当時の姿をとどめているものって実はとても少ないんですよね。
たまに半分だけ教会??みたいな表面の建物を見つけたら、きっと何か隠れた歴史があるんだろうな、と思って想像してみるのも楽しいですよ。