1434年から1737年にかけて、およそ300年にわたってフィレンツェの街の実権を握ったメディチ家。
個性豊かなメンバーは、それぞれに優秀で、様々な点で街の発展に貢献しました。
後半は外国からお嫁さんをもらうことも多く、初代と最後で顔の雰囲気が全く変わってしまうのもこの一族の面白いところです。
さて、その中で男前No.1は誰だ!?勝手にランキング。開催します!
目次
堂々の1位!!イッポーリト・デ・メディチ
かっこよくないですか!?(*´▽`*)
この人はイッポーリト・デ・メディチ(Ippolito de’ Medici / 1511-1535)さんといって枢機卿(カトリックの聖職者)だった人物です。
血筋はロレンツォ豪華王(Lorenzo il Magnifico)の孫にあたり、いわばメディチ本家の出なのですが、父ジュリアーノがロレンツォの三男であるため、メディチ家の家督を継ぐ立場にはありませんでした。
その生涯はわずか24歳、非常に短いもので、美人薄命ならぬ美男薄命…ということでしょうか。。(´・ω・`)
続いて第2位!!ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ
続きましてメディチ家男前ランキング第2位はこちら!!
通り名からしてカッコいい、「黒帯のジョヴァンニ(Giovanni delle bande nere)」ことルドヴィコ・ディ・ジョヴァンニ・デ・メディチ(Ludovico di Giovanni de’ Medici / 1498-1526)さん。
生まれた時はルドヴィコと名づけられましたが、お父さんのジョヴァンニが亡くなった後、その名を引き継いでジョヴァンニと名乗ることになりました。
凛々しい武具姿が似合うジョヴァンニは、名君初代トスカーナ大公コジモ1世のお父上です。
軍人姿の父に憧れていたと言われるコジモ1世は自らの肖像画も同じく武具を身に着けた姿で。
さて、お父上のジョヴァンニさんはとても男らしい性格の人で、残した格言は
「理(ことわり)なくして剣を抜かず、徳なくして剣を握らず」
「私が前に進むときは、皆私についてこい。もしも私が退(ひ)こうとしたら、私を殺せ!」
Wikipedia『ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ』
軍人の中の軍人ですね!!
そしてもう一つ、人情溢れる男らしいエピソード。
彼の通称「黒帯のジョヴァンニ」とは、幼くして父母を亡くした彼を、軍人として育て重用してくれた遠縁のローマ教皇レオ10世(ロレンツォ豪華王の息子)が亡くなったとき、哀悼の意を表して自分の旗じるしに黒い帯を入れたことからそう呼ばれます。
軍人としてはとても優秀な人だったようで、果敢に教皇を脅かす敵と戦い、イタリアおよび教皇領を守っていました。
しかし軍人ゆえにケガはつきもの。戦いで負った古傷の場所に再び傷を受け、それがもとでわずか28歳で世を去ります…
後年16世紀最大の軍人と称賛され、歴史学者は
もし彼がもっと長く生きていたら、イタリアの歴史は変わっていただろう
と書いています。
ジョヴァンニは、亡くなったとき、武具をつけた姿で葬られ、それは1800年代のメディチ家の墓の調査で発見されました。
そのときに身に着けていた武具は、今はフィレンツェのスティッベルト美術館に保管されています。
スティッベルト美術館第3位入賞!!ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチ
そして第3位!!
ででーん♪
こちらはヌムール公ジュリアーノ・メディチ(Giuliano de’ Medici duca di Nemours / 1479-1516)さんといいまして、なんとあの第1位のイッポーリトさんのお父上です!!
いや~やはり血は争えないのね~
メディチ家人気君主ランキング(まだやってないけど)ベスト3に入る、ロレンツォ・イル・マニフィコの三男で、父から「優しい」と評価された人物です。
ちなみに長男ピエロは「愚かな」、次男ジョヴァンニ(後のレオ10世)は「賢い」と評されました。
長男…………(´・ω・`)
気を取り直してこちらのジュリアーノさんですが、とても人好きのする人物だったようで、イタリア・ルネッサンスで最も魅力的な人物の一人と評されるほど、ウルビーノやマントヴァといったよその宮廷においても歓迎されていたそうです。
また正直な人でもあり、兄のジョヴァンニが教皇レオ10世となった後、彼にパルマ、ピアチェンツァ、モデナなどの領地を与え、さらにウルビーノ公の地位も与えようとしましたが、
それはフランチェスコ・デッラ・ローヴェレが正当な公爵だから私が受け取ることはできません
といって断ったとか。
彼がこのように寛容な性格だったのは、三男という生まれた時のポジションにもよるのかもしれません。
長男、次男に比べ、プレッシャーが少なくおっとりと育てられたっぽいですから…
この時代、一般的に裕福な家の長男は家の跡継ぎに、次男(以降)は聖職者になるとされていたのよ~息子を聖職者とするのは、巨大権力であるローマの教皇庁とのつながりを密にし、影響を及ぼすことができるようにする目的があったの
ちなみにヌムールというのはフランスのパリの南にある地名です。
ジュリアーノさんはフランス王の叔母フィリベルタ・ディ・サヴォイアと結婚したことによりこの領地を受け継ぎ、以後ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチと呼ばれるようになりました。
なお、息子イッポーリトはこの結婚による子ではなく庶子であったため、彼の跡継ぎにはなれず聖職者となりました。
こうしてなかなか人気のあった人物だったんですが、37歳の若さ、息子イッポーリトがたった5歳のときに亡くなってしまいました(´・ω・`)
このジュリアーノのお墓は巨匠ミケランジェロの手によるもので、有名なメディチ家礼拝堂の新聖具室内にあります。
彫刻の装飾作品『昼と夜』が素晴らしいです!
メディチ家礼拝堂番外編~伝説ではかなりの美男子だった!?もう一人のジュリアーノ・デ・メディチ
この人はジュリアーノ・デイ・メディチ(Giuliano dei Medici / 1453-1478)、ロレンツォ・イル・マニフィコ(豪華王)(Lorenzo il Magnifico / 1449-1492)の弟で、「パッツィ家の陰謀」という1478年の事件によりわずか25歳で命を落とした人です。
やっぱり美男薄命なのか??
さきほどのジュリアーノとは別人、彼から見ると叔父にあたる人物よ!
この胸像でイケメンかどうかは、微妙なところですが、彼についてはフィレンツェ一の美女と謳われた、シモネッタ・ヴェスプッチとのロマンスエピソードが残されていて、この二人を描いたのがあのボッティチェリ。
その作品はあの有名な「春(プリマヴェーラ)」ですが、その一番左手に立っているこの男性、マーキュリーは一説では彼をモデルに描かれたといわれています。
うん、これはなかなかのイケメンっぽいですね!
サンドロ・ボッティチェリ作「春(プリマヴェーラ)」まさに春の喜びが溢れた幸せいっぱいの名画!ちなみに他のメンバーは??
ご覧いただいたように、男前ランキングに入賞(勝手に)したのは、主に歴史の表舞台で大活躍というよりも、裏でひっそり…というちょっと目立たないタイプが多かったですね。
家督を継いだ主なメンバーは、非常に優秀で芸術にも造詣が深かった人も多かったのですが、残念ながら入賞ならず…という結果に(あくまでも主観的判断ですが)。
特に今回、何度も名前が出てきたロレンツォ・イル・マニフィコ(豪華王)、功績は素晴らしいんですが、その容貌を伝えるものはというとあまり芳しいものが多くはなく…。
でも、詩人としてもとても優れた人だったのよ~
ちなみに、彼の生きた時代のフィレンツェやピサ、ローマを舞台に描かれたこちらの作品、時代背景がわかりやすく描かれていておすすめですよ。
メディチ家男前ランキング、いかがでしたか?
こっちの方が男前!( *´艸`)とか、
私の好みじゃない!!(-。-)y-゜゜゜とか、
色々な意見があると思いますが、まぁ勝手にランキングなのでお気になさらず。笑
あと肖像画を描いた人の腕前にもよるっていう話もありますね!
彼らの肖像画や他のメンバーの肖像画はウフィツィ美術館やパラティーナ美術館をはじめ、フィレンツェの随所に散らばっていますので、現地を散策する機会があれば探してみてください♪
美女ランキングは、いずれ気が向いたらやるかもしれません。