歴史上の人物には、時に驚くほどのスキャンダルや謎にまみれた人がいます。
16世紀、フィレンツェの街を支配していたメディチ家も例外ではありません。
いったん落ちぶれかかったメディチ家から、見事街を支配する力を復興した偉大なる初代トスカーナ大公、コジモ1世。
その長男フランチェスコ1世と、その愛人でのちに大公妃に昇りつめたビアンカ・カペッロ。
二人はわずか10時間の差でこの世を去り、その死因は数世紀にわたって毒殺とも病死とも噂されました。
今回は、そんなちょっとゾクッとする歴史の闇についてのお話です。
目次
登場人物
ビアンカ・カペッロ
ビアンカ・カペッロ(カッペッロとも表記 / Bianca Cappello, 1548-1587)はヴェネツィア生まれの美しい女性。
結婚を機にフィレンツェにやってきました。
後にメディチ家のフランチェスコ1世に見初められます。
ヨーロッパ人で初めて日本人と踊った女性としても有名で、天正遣欧使節の伊東マンショがその相手。1585年の、彼らを歓迎するためにピサで行われた宴でのできごとでした。
フランチェスコ1世
フランチェスコ・デ・メディチ(Francesco de’ Medici / 1541-1587)。
偉大なる初代トスカーナ大公コジモ1世の長男。大公としてはとても変わった人物で、趣味は化学と錬金術。住居兼仕事場であったヴェッキオ宮殿内に書斎を作らせ、政治そっちのけでせっせと研究に勤しむ、内向的な性格でした。
父コジモの命令により、神聖ローマ皇帝の妹ジョヴァンナ・ダウストリアと政略結婚するも、妻そっちのけで愛人ビアンカに夢中になります。
フェルディナンド1世
フェルディナンド・デ・メディチ(Ferdinando de’ Medici / 1549-1609)は同じくコジモ1世の息子で、フランチェスコの8歳下の弟。
兄フランチェスコと違って快活で人好きのする性格で、当時の慣習に従い枢機卿となっていました(この時代、名家の長男は跡継ぎに、次男以降は聖職者の道に進むことが多かったのです)。
正反対の性格のせいか、兄とは仲良くなく、またもともと愛人だったビアンカが大公妃に収まったこともよく思っていませんでした。というかむしろ、その存在を憎んですらいました。
この3名が中心となって物語は幕を開けます…
世紀の美女ビアンカ・カペッロ
ヴェネツィアの高貴な家柄に生まれる
ビアンカ・カペッロはヴェネツィアの貴族、バルトロメオ・カペッロの娘として1548年に生まれました。
幼い頃から、その美しさと立ち居振る舞いの優雅さは評判だったそうです。
しかし15歳の時、フィレンツェ出身のピエトロ・ボナヴェントゥーリという男性と出会い、恋に落ちます。このピエトロは、フィレンツェのコジモ1世の母、マリア・サルヴィアーティの実家の銀行家として仕事をしていました。身分はおそらく平民です。
当然、身分違いの恋を貴族であるビアンカの父が認めるはずもなく、二人は駆け落ちという手段に出ます。でも見つかったらピエトロは死刑、ビアンカは終生修道院での生活。まさに命がけの逃亡でした。
なんとか無事、フィレンツェにたどり着き、細々と暮らし始めた二人ですが…
フランチェスコ・デ・メディチとの出会い
危険を冒して手に入れた新しい生活ですが、ビアンカは徐々に失望していきました。夫ピエトロは甲斐性がなく、ビアンカに約束していたような生活をさせてやらなかったのです。
とはいってもビアンカも貴族階級の出身。自ら働いて稼ぐということもできません。
日々、サン・マルコ修道院の見える、広場に面した家の窓から通りを行き交う人々を眺めるだけでした。
ある日のこと。
いつものように窓から通りを眺めていたビアンカを、一人の男性が見つけます。
なんと美しい…!まるでこの世に舞い降りた聖なる存在のようだ…
ビアンカに一目ぼれしてしまったこの男性こそ、トスカーナ大公コジモ1世の長男、フランチェスコ。
正確な時期はわかりませんが、恐らくビアンカがフィレンツェについて間もない頃のことだったと推測されています(1564年頃?)。
この時、フランチェスコはまだ独身。ですが、次期トスカーナ大公としてそれにふさわしい身分の女性を妻として迎えなければならない立場でした。もちろん人妻であるビアンカなどもってのほかです。
とはいっても、まだ父コジモも健在でもあり、フランチェスコがビアンカを公然と口説くことについてそれほど大きな問題になることはなかったようです。
フランチェスコは、ビアンカに宝石やドレスなど、宮廷の貴婦人にふさわしいありとあらゆる贈り物をして彼女を喜ばせます。それどころか、夫のピエトロにも仕事を与えました。
つまり、『買収』ですね…!権力者って怖い。。
ですが時期が来て、フランチェスコは、父コジモの命令で1565年に政略結婚をすることに。相手は神聖ローマ皇帝の妹、ジョヴァンナ・ダウストリア(Giovanna d’Austria / 1547-1578)。
しかし美しいビアンカと比べて、ジョヴァンナは痩せて青白い顔で女性としての魅力に乏しく(少なくともフランチェスコにとっては)、結婚後もフランチェスコはビアンカに夢中でした。
この不倫状態(途中からW不倫)がしばらく続いたころ、事件は起こります。
ビアンカの夫の謎の死
それは1572年、ビアンカと夫ピエトロがフィレンツェに逃げてきてから10年弱の月日が流れた頃のこと。
ピエトロはサンタ・トリニタ橋の近くの道で、口論の末、刺し殺されてしまいました。
この頃、ピエトロも別の人妻との関係を噂されており(トリプル不倫!)、その結果であったのだろうとされています。ですが、その存在を疎ましく感じていたフランチェスコとビアンカが事件を企んだのでは、と噂されました。
そして未亡人となったビアンカに、フランチェスコは自宅のピッティ宮殿から目と鼻の先にあるマッジョ通りの宮殿をプレゼント!
フランチェスコのお気に入りの宮廷建築家、ベルナルド・ブォンタレンティ(Bernardo Buontalenti)が手掛けた最初の仕事です。1570年代前半、ブォンタレンティは古い宮殿(1400年代初頭の築)を改築しました。
外側の入り口アーチには、カッペッロ(帽子)の紋章。
新しく設けられた窓の下にはこうもり。家の守り神の意味が込められているそうです。
外観の豪華な装飾は、1579年頃、ベルナルディーノ・ポチェッティ(Bernardino Poccetti)によって施されました。
ご近所さんとなった二人は、これまでにもましてせっせと逢瀬を重ねることに。
が、ビアンカはほどなくこの宮殿を手放します。そのわけは…
フランチェスコの妻ジョヴァンナの死
政略結婚とはいえ、フランチェスコの父コジモは、オーストリアから嫁いできた息子の嫁ジョヴァンナをとても可愛がっていました。
彼女がフィレンツェで暮らしやすいよう、色々と心を尽くしてあげていたようです。彼らの結婚式の際には、ヴェッキオ宮殿の第一の中庭に彼女の故郷であるオーストリアの街の風景画を装飾させたりしています。
そんなコジモが、1574年、死去しました。
長男フランチェスコがその地位を引き継ぎ、トスカーナ大公フランチェスコ1世の誕生です。
後ろ盾でもあった義父を失い、夫は相変わらず愛人宅に入り浸る毎日。ジョヴァンナは心細く、寂しい生活を送っていたことでしょう。
義父の死から4年後の、1578年、春。
わずか31歳でジョヴァンナ・ダウストリアはこの世を去ります。
死因は、階段から落ちたため。しかも妊娠中。
えっ、それってもしかしてもしかして…
そう、当時から、2年前に亡くなったビアンカの夫に続き、邪魔者だったジョヴァンナを亡き者にしようとしたフランチェスコとビアンカの陰謀ではないかとささやかれたのです。
しかもこの噂に真実味を帯びさせたのが、二人の行動。
なんとフランチェスコは妻ジョヴァンナが亡くなったわずか二か月後、内密にとはいえビアンカと再婚していたのです。
二人の再婚が公式になったのは翌年、1579年のこと。そしてフランチェスコとともにピッティ宮殿で暮らすようになり、ビアンカは大公妃と呼ばれるようになりました。
ただ残念ながら二人の間には子宝は授かりませんでした。
フランチェスコとジョヴァンナの間には、早世した子も含めて7人の子が生まれていました。そのうち6人が女の子で、成人したふたりの娘のうちひとりはマリア、のちのフランス王妃(アンリ4世妃)です。
もうひとりはエレオノーラ、マントヴァのゴンザーガ家にお嫁に行きました。
ジョバンナが産んだ唯一の男の子、フィリッポは、その後わずか5歳で亡くなってしまいます。こうしてフランチェスコには跡継ぎとなる男子がいなくなってしまいました。
が、
実はフランチェスコとビアンカの間には、一人の男の子がいたとされています。
名前はアントニオ、1576年生まれ。つまりジョヴァンナ死去前に生まれており、当然非嫡出子の扱いでした。彼女の死去後も、この子を跡継ぎにすることには、フランチェスコの弟フェルディナンドが猛反対し、叶わず。しかもフランチェスコが亡くなった後にはフェルディナンドは、彼に田舎の領地を与えることと引き換えに、メディチの家から遠ざけることさえしました。
実はこのアントニオ、二人の子ですらないのでは…という話もあるわ。後世の研究でDNAがビアンカとは一致しなかったの。だから、フランチェスコと他の女奴隷との間の子で、跡継ぎのない自分の将来を心配したビアンカの作り話では、と言われてるんだけど…ほんとのところはどうなんでしょうねぇ
最大のミステリー、毒殺か?病死か?
結局、フランチェスコとビアンカは晴れて(?)夫婦になり、お気に入りのプラトリーノの別荘(現ヴィッラ・デミドフ)で幸せな日々を過ごしました。
プラトリーノのメディチ庭園(ヴィッラ・デミドフ)弟フェルディナンドはもちろん、フィレンツェ市民からもこの二人はあまり人気がなかったんだけどね…
そんな周囲の冷たい反応をものともせず、彼ら二人はまるで引き寄せられるかのように偶然に偶然を重ねて出会い、出会ってから15年の歳月を経て、困難な状況を次々とクリアして一緒になったわけです。
ですがこれでめでたしめでたし、とならないのが歴史の怖いところ。
フランチェスコとビアンカ、二人の最期
彼らの人生の終わりは、これまた謎に満ちています。
フランチェスコの命日は、1587年10月19日。
一方、ビアンカの命日は、1587年10月20日。
そう、わずか一日違い、もっというとたった10時間違いだったのです。
彼らが人生最期の日を迎えたのはポッジョ・ア・カイアーノにあるメディチ家の別荘でした。
ポッジョ・ア・カイアーノのメディチ家の別荘1587年10月8日、フランチェスコは弟フェルディナンドと午後に狩りをし、夕食をともにします。この時はビアンカも同席しました。
そしてその晩、フランチェスコとビアンカは、高熱と激しい嘔吐・下痢に襲われます。翌々日、いったん回復するも、再び同じ症状に襲われ、結局11日間苦しみぬいた挙句、10月19日、トスカーナ大公フランチェスコ1世死去。ほぼ同じ症状を示したビアンカも、約10時間後にこの世を去りました。二人はお互いが亡くなったことを知らずに、それぞれに最期の時を迎えました。
ここで当然、疑われるのはフェルディナンド。実際に彼はビアンカのことを毛嫌いしており、憎んでさえいました。葬儀に際しては
どこに葬ろうと好きにするがよい、ただし我々の墓にだけは入れぬ!
と言い、大公妃であったにも関わらず、ビアンカの国葬は拒否しました。
このため、現在でもビアンカのお墓の所在はわかっていません(フランチェスコは他の一族と同じくメディチ家礼拝堂の地下墓室に、最初の妻ジョヴァンナとともに眠っています)。
こんな状況だったので当時からフェルディナンドによる毒殺の噂が流れましたが、もちろん確証はなく、公式記録には二人はマラリアで亡くなったと記されました。
時は流れ、2004年。二人はヒ素中毒で亡くなったとする学説が発表されました。
二人が亡くなった場所、ポッジョ・ア・カイアーノにほど近い教会に、二人のものとみられる遺体が葬られたとされているのですが(このうちフランチェスコのもの<?>は後に礼拝堂に移された)、その肝臓からヒ素が見つかり、それと礼拝堂にあるフランチェスコの骨のDNAが一致したというのです。
このセンセーショナルな大発表は世間を驚かせました。
が、後の詳しい調査によってDNA鑑定の結果と方法が疑わしい(別人のDNAだった?)とされました。また、肝臓にあったとされるヒ素は致死量ではなかったこと、ヒ素中毒は高熱の症状がないことなどの理由から、結局現在では、やはり公式記録の通り二人はマラリアで亡くなったとみるのが主流になっています。
私の個人的見解ですが…
現在では真実を確かめることはできず、どれも推測の域を出ることはできません。
でも、私は個人的には、毒殺したのがフランチェスコではなくフェルディナンド、というのはあまり信じられないなーと思います。
というのも、最初に書いたようにフランチェスコの趣味は化学と錬金術。多少は毒薬に詳しくても違和感がありません。性格的にもこそっと毒を仕込んで、とか納得しちゃう感じ。
でも、フェルディナンドが好んだのは輝石細工と武具のコレクション。
ヴェッキオ橋が現在のように宝石屋さんでいっぱいになったのはフェルディナンドのおかげなのよ
権力者としてわかりやすい、きらびやかな趣味ですよね。それに明るくて民衆からの人気もあったフェルディナンドのキャラクターと毒殺…なんか結びつかない。
ちなみに、ビアンカも、世間で言われるほど果たして悪女だったのか、というのも疑問に思うところです。
確かに彼女の最初の夫や、フランチェスコの最初の妻ジョヴァンナの死はどちらもちょっと不可解なところはあります。
でも、なんとなく、わずか15歳で異国出身の平民の男に言いくるめられて駆け落ちしてしまうあたり、世間知らずなお嬢さまっていう感じがして…。その純粋さはまるで『ベルサイユのばら』のマリー・アントワネットのよう。
幼い頃から可憐で美しく、蝶よ花よと育てられた貴族のお嬢さまで、それこそ困ったら誰かが手をさしのべてくれてたであろうビアンカ。
駆け落ち後も、わりとすぐにフランチェスコに見初められ、生活に苦労した期間はわずかだったでしょう。
そんな彼女が、邪魔者たちを手にかけて…みたいな、したたかなことを思いつくだろうか、という気がします。
まぁ、とはいってもどれも真実はわからないんですけどね!
でも、フランチェスコとビアンカ、最初に出会ってから文字通り「死が二人を分かつ時まで」ずっと一緒で、むしろ死ぬときさえ一緒で、お互いにお互い以外を見ることもなかった…というところはきっと事実でしょう。関係性については賛否両論あるでしょうけど。
強い運命でひかれあったってことは間違いなさそうね!
おしまい!