世界で一番、ユネスコ世界遺産に登録されている史跡の数が多いイタリア(2024年8月現在の登録数60)、その中でも旧市街全体が歴史地区として登録されているのがフィレンツェです。
フィレンツェといえば・・・やっぱり芸術の都、ルネサンスってイメージだよね!
確かに、日本でもよく知られているレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロなどが活躍した15世紀から16世紀にかけてのルネサンス時代が最も華やかだったことから、『ルネサンスの街』というイメージが強いですね。
でも、実はその歴史は2000年以上前にさかのぼることができる、古い街なのです。
えっ・・・2000年前ってすごいね・・・その時代っていうと、えーと・・・?
そう、その時代は古代ローマ時代。実はフィレンツェの基礎をつくったのは古代ローマ人でした。
そんなルネサンスだけじゃない!それ以前にも実は長い歴史を持つフィレンツェの街、せっかくなのでじっくりたどってみましょう!
目次
考古学博物館・・・世界有数のエトルリアコレクション
古代ローマ人がこの地にやってくる前、フィレンツェを含むトスカーナ地方にはエトルリア人と呼ばれる人たちが暮らしていました。
彼らの遺跡などが発掘されているのは主にフィレンツェの北側のフィエーゾレ地区や、その他の郊外エリアよ~
この考古学博物館には、エトルリア人が使っていた食器やグラス、ワイン用デキャンタなどの生活用品のほか、葬送用の棺、そして美しい彫刻などが収蔵されています。
16世紀のトスカーナ大公コジモ1世・デ・メディチの趣味でコレクションに加えられた『キメラ』など、見ごたえある作品も。
余談ですが、この博物館はイタリア第2を誇るエジプトコレクションも有しています(1位はトリノのエジプト美術館)。
考古学博物館の庭園部分にはエトルリア人のお墓を再現したものもあります(入場は博物館が設定する日時のみ可能)。古代の生活に興味があったら、きっととても楽しめますよ!
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国立考古学博物館共和国(レプッブリカ)広場・・・フィレンツェの街はここから始まった
先ほどお話ししたように、フィレンツェの基礎を作ったのは古代ローマ人でした。実はこの町、当初は古代ローマ人にとっての兵士の基地として作られたものだったのです。
彼らの基地の作り方には、下の絵のようなルールがあります。
基本的に司令官のいる建物を中心として縦と横に大きい道を通し、それぞれの区画を碁盤の目のように道を整備するという、とても規則正しいものです。
そして、後にこの形を基に、中心にフォロ(広場)が整備され、兵士の宿営地の代わりに都市としての機能が発達していきます。
フィレンツェの街の地図を見てみると…
とてもわかりやすく、今でもその姿が残っています。四角い点線で囲まれた部分が古代ローマ人が作った基礎の部分、南北と東西にそれぞれ一本の道が通っています。
ほんとだー!
歴史が下るにつれ、どんどん街は大きく成長していきますが、この500m四方ほどの区画が、フィレンツェが生まれたときの姿だったんです。小さいですよね!
そしてその中心に位置するのが共和国(レプッブリカ)広場。もともとはこの半分ほどの大きさで、そこには古代の神を祀った神殿があったとされています。
ちなみにこの広場の下には、古代ローマ時代の遺跡が眠っています!
現在はメリーゴーランドがあり、歴史あるカフェや露店も並ぶにぎやかな場所で、変わらず街の中心です。
サン・ジョヴァンニ洗礼堂・・・古代ローマ時代の住居跡(?)も見られる
こちらは、現在フィレンツェのシンボルとなっているサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)、の前にある八角形の建物。
現在のドゥオモ(大聖堂)の建設は1296年開始ですが、実はこちらの洗礼堂はそれ以前から存在していました。もともと街の規模がそこまで大きくなかった時代、こちらが大聖堂的な機能を果たしていたのです。
さらに、この地にキリスト教が普及する以前は、この場所には古代ローマ時代の建物が建っていたと考えられ、現在でもその跡を床の下に見ることができます。
この建物は、ローマ人たちが使っていた住居の跡?などの説が出ているわ~
その後、この建物は取り壊され、西暦1059年、現在の洗礼堂の建設が完成して奉献されました。この時代はロマネスク様式という時代なので、華やかなドゥオモに比べて全体にシンプルな印象の建物です。
ロマネスク様式の特徴は、「どっしり・がっしり」。建築技術がまだ発達していないので大きな開口部分(窓)を取れないということも関係しています
外観の幾何学模様もロマネスク様式の特徴のひとつね~
フィレンツェに今も残る数少ないロマネスク様式の建物である、という点も見どころですが、その後の時代に付け加えられていった数々の装飾も魅力。内部の床には幾何学パターンのロマネスク様式の装飾や十二星座をデザインしたもの、ゴシック時代の天井モザイク画(2023年から修復中につき見学できません)、外観では美術史の流れを感じることのできる三方の扉など。
入って出るだけだと5分ぐらいの小さな建物ですが、細部をしっかり鑑賞したいところです。
フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂、見どころ全部お伝えします!チケット情報・開館時間などはこちら
ドゥオモ、クーポラ、ジョットの鐘楼、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ドゥオモ付属博物館、サンタ・レパラータ教会遺構ダヴァンツァーティ宮殿・・・中世の貴族の暮らしぶりが感じられる
さて、少し時代を進めて、『ダヴァンツァーティ宮殿』に行きましょう!
正面は威風堂々たる風格の、立派な宮殿です。正面に大きく掲げられているのはダヴァンツァーティ家の紋章ですが、もともとダヴィッツィという別の家の持ち物でした。
年代は14世紀ごろのもので、この時代はフィレンツェのそこかしこに『塔の家』と呼ばれる細長い建物が存在していました。
実は今もいくつかの建物が街中に残ってるんだけど、完全に街並みに溶け込んでいて言われて初めて気づく、というところも多いのよ
このダヴァンツァーティ宮殿は、このような塔の家をいくつか合体して作られたもの。中に入ってみると細かく仕切られた部屋がいくつもつながり、それぞれの部屋ごとに趣向を凝らした装飾がなされています。
面白いのは壁の装飾。一見カーテンのようにも見えますが、実はこれ、フレスコ画で描かれたもので、平面の壁なんですがインテリアの一部のような効果を発揮しています。
家具や調度品なども昔の貴族の生活スタイルを再現したような形で配置されているので、暮らしていた様子を想像するとちょっと楽しいですね。
それと、配置されている部屋の種類の順番にも注目!
最初に出てくるのは大きめの部屋、恐らく客間のような位置づけでしょう。一番上の階にあるのは、こちら!
これは…台所…?最上階にあるの…?
そう、昔の建物は主人の部屋ではなく、台所が一番上にあることが多いです。なぜでしょう?
うーん、なんでだろ…
それではシンキングタイム!
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答えは、「火を使うから」です。この時代、上下の移動は階段のみ、しかもそれは家の中に一か所だけ。万一のとき、煙は上に上がっていくので、家の主人など大事な人が逃げ遅れてしまっては大変!ということで、危険な台所は最上階に設置されるのが普通でした。
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ダヴァンツァーティ宮殿ヴェッキオ宮殿・・・700年以上に渡る政治の中心地
そして、お次は『ヴェッキオ宮殿』へ。現在もフィレンツェの街の中心地、ダヴィデ像のコピーがあることで有名な、大きな広場の前にあるこれまた大きな宮殿です。
正面から見える高い塔も風格があるよね!
こちらは建築開始が1299年、プロジェクトはアルノルフォ・ディ・カンビオのものと伝えられています。
つくられた当時から行政長官の館、つまり政治的なトップの居所として計画され、その後もずっと政治の中心地であり続けました。
この巨大な宮殿、一度に作られたものではなく、最初に作られたのは広場に面した部分のみでした。
その後、15世紀の終わりにドメニコ会修道士サヴォナローラの案により有名な五百人広間が増築されます。
『五百人広間』は名前の通り、広大な部屋。建築当初より大幅に改築され、装飾が追加されたのでとても豪華な空間になっています。
ちなみにここを建築させたサヴォナローラとは、サン・マルコ修道院(現サン・マルコ美術館)の修道院長。
当時、豪華絢爛たるルネサンス時代のフィレンツェを、実質的に支配者していたメディチ家の当主ロレンツォ・デ・メディチ(ロレンツォ豪華王)の贅沢を糾弾し、神の名の下に質素な生活を推進して民衆の支持を集めました。
狂信的な信者を中心に、贅沢禁止令を敢行して豪華な服飾品やジュエリー、美術作品などを市民から提出させて広場で燃やす『虚栄のかがり火(焼却)』を行います。あのボッティチェリも、自分の作品を燃やしてしまったとか・・・
ももももったいない・・・!
とはいえ、そんな異常な時代はすぐに終わり、やがてサヴォナローラは時のローマ教皇アレクサンデル6世の命により、追随者の修道士二人とともに火刑に処されます。
この処刑が行われたのも、まさにこの広場でした。その場所を示す石碑が広場にあります。
宮殿は16世紀にさらに増築され、現在の面積に。
1540年、メディチ家の当主コジモ(1世)が、当初住んでいたメディチ・リッカルディ宮殿から、このヴェッキオ宮殿に引っ越してきます。
政治の中枢であるこの建物に自ら住まう、つまりそれは自分こそがこの町の支配者であることを誇示するためでした。
この時代に、ヴェッキオ宮殿の内部の多くはメディチ家の栄光を称える装飾がなされ、それは現在でも見ることができます。
例えばこちらは、コジモ1世から遡ること100年ほど前の偉大なるメディチ家当主、コジモ・イル・ヴェッキオが政敵による追放からわずか1年で復帰したときの様子を描いたもの。
コジモ1世の統治下では宮殿の内外にも様々な装飾が追加されました。
先ほどの五百人広間も、建築当初は飾り気のない、がらんとした広い部屋でしたが、コジモ1世が自らの住む館として華々しくリニューアルしました。
その他にも、宮殿の外部装飾も色々と力を入れています。
コジモの息子のフランチェスコ1世も、この宮殿内に自室『ストゥディオーロ』を作り、そこに趣味のコレクションを収めていました。
ちなみに、ヴェッキオ宮殿からピッティ宮殿までを結ぶ有名な『ヴァザーリの回廊』は、このフランチェスコ1世の結婚式に際して父コジモ1世が建築を注文したものなんですよ。
スタート地点もここ、ヴェッキオ宮殿です。
建設当初から市庁舎だったこの建物、実は現在も一部にフィレンツェの市役所が入っているのよ~
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ピッティ宮殿・・・メディチ家の栄華が大集結
メディチ家は16世紀に住居をヴェッキオ宮殿に移しましたが、ほどなくしてこのピッティ宮殿を買い取ります。
実はこのタイミングで、先ほどの宮殿は名前が「ヴェッキオ宮殿」になりました。ヴェッキオとは「古い」という意味。街の支配者であるメディチ家が新しい宮殿に移ったことで、もとの宮殿がそのように呼ばれるようになったのです
ピッティ家というのはメディチ家のライバル。1444年、メディチ家が市内中心部に宮殿(現・メディチ・リッカルディ宮殿)を建てたことに対抗して、当主ルカ・ピッティがこの宮殿の原型となる宮殿を建てました。この場所は当時、街のはずれの小高い丘(ここがポイント!)で、自然が広がるエリアでした。
ルカ・ピッティがここを選んだのは、
メディチ家の宮殿よりうちの方が高いから!
と威張るため・・・笑
ちなみに「原型」というのは、現在の姿とかなり違っているからです。
えっ小さい・・・!?
そう、15世紀の建築当初は実は現在のものと比べてかなり小ぶりなサイズで、正面はざっくりと1/3ほどの長さでした。
これをメディチ家のコジモ(1世)が買い取り、代々増築していったのです。
増築のときには当初のスタイルを維持したまま拡張していったから、言われなければ最初のサイズはもちろん、どこを拡張したのかもほぼわからないでしょ~
なので外観のスタイルとしては15世紀のルネサンス様式を維持しているのですが、内部装飾は時代に応じてどんどん変更されていきます。
外は割と地味な印象ですが、中はかなり豪華絢爛。
広大な宮殿の中には4つの美術館が入っていて、最も有名なのはラファエロ・コレクションなどを有する2階のパラティーナ美術館ですが、1Fのメディチ家の財宝コレクションも見ごたえあり!
さらに1861年、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世によるイタリア王国統一後、王国の首都が一時的にここフィレンツェに置かれました。そのため、宮殿内部(2F)には王家の居室ゾーンも残されています(2024年現在、メンテナンスのため閉館中)。
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パラティーナ美術館、近代美術館、大公たちの宝物殿、衣装博物館(ピッティ宮殿)こちらの裏手にはさらに広大なボーボリ庭園が控えています。
ボーボリ庭園、陶器博物館共和国(レプッブリカ)広場・・・現在の姿に至る現代史
さて、フィレンツェの歴史を一通り見終わったら、また街の中心の共和国広場に戻ってみましょう。
この広場、正面から見ると大きなアーチがそびえています。
その中心部分をよく見ると「MDCCCXCV」と書かれた文字があり、これは「1895年」と読みます。
ここは、最初に見たようにフィレンツェの街が産声をあげた当時から街の中心であり、キリスト教普及以前は神殿が建てられ、その後は市場が設置されて市民の台所となり…と、常にとても大切な広場でした。
1833年、この広場が新たに整備されることになり、隣接する地区にあったユダヤ人ゲットーの取り壊しとともに市場は場所を移されます。ここには建築家ヴィンチェンツォ・ミケーリの設計に基づきこのアーチ型の大きな建物が建てられ、1895年に完成。
建物は住居用建物として設計されていて、現在は1F部分はお店が入り、2F部分は主にホテルとして利用されています。
ということで、フィレンツェの歴史をめぐる旅、いかがでしたか?
それぞれの場所以外にも、道中色々な歴史おもしろポイントもあってきっと楽しめると思いますよ!