日本ではあまりその名を知られていない、ブロンズィーノ。
1500年代にメディチ家の宮廷画家として活躍した人で、その類まれな観察力と描写力には、見れば見るほど感心します。
本名アニョロ・ディ・コジモ・ディ・マリアーノ(Agnolo di Cosimo di Mariano /1503-1572)、どんな人だったのでしょうか?
目次
ブロンズィーノの代表作
コジモ1世ファミリーの肖像画シリーズ【ウフィツィ美術館】
ビア・ディ・コジモ・デ・メディチ
この可愛らしい女の子は、コジモ1世が正妻エレオノーラと結婚する前に、別の女性との間に生まれた子で、ビアという名前です。
コジモ1世は20歳のとき、スペイン人でナポリ副王の娘、17歳だったエレオノーラと結婚したの。政略結婚ではあったけど、エレオノーラの美しさを一目見てコジモは気に入ったと言われているわ♡
そして彼らはとても仲睦まじく、エレオノーラが40歳で亡くなるまでに11人もの子をもうけたの
さて、エレオノーラのご紹介は後ほどさせていただくとして、愛するエレオノーラとの子ではありませんでしたが、コジモ1世はこのビアのことをとても愛していて、仕事場にも連れて行くほど可愛がっていました。エレオノーラも自分の子どもたちと一緒に分け隔てなく育てていたみたいです。
わかる~だってすごく可愛らしいよね!
彼女が身に着けているネックレスのトップには、コジモ1世の横顔が刻まれた貴重なメダルがついているのよ。これは父コジモが本当に彼女を可愛がっていた証拠ね!
繊細な刺繍の入った真っ白なドレスやパールのネックレス、ベルト、ピアスなど身に着けているものがすべて高級で、大事に大事に育てられたお姫様。
でも小さい子らしく、左手はちょっと落ち着きなくベルトの先をいじっています 😆
ただ残念ながら、ビアはこの肖像画が描かれたすぐ後、わずか5歳で早世してしまいました… 😥
コジモ1世は、その死をとても嘆き悲しんだそうです。
この時代で強い君主にそのようなエピソードが残っているのは、とても珍しいことなのよ
エレオノーラ・ディ・トレドとジョヴァンニ(?)
そしてもう一枚、おすすめの作品はこちら。
こちらはコジモ1世の妻、エレオノーラ・ディ・トレドと息子ジョヴァンニ(?)の肖像画。
これも間近で見ると、ドレスの生地を貼り付けているのではないかと思うほどのリアルさ、その豪華さは誰しも肖像画の前を通る人が思わず目を奪われ、足を止めてしまうほどです。
身に着けているジュエリーもパールの一粒一粒に至るまで、繊細に丁寧に表現されていて、どこを見てもため息が出てしまいます!
そしてエレオノーラ妃の陶器のような滑らかで透明感のある肌。
この時代の高貴な女性は屋内で過ごすものとされていたので、このように色白で美しい肌をしていました。日本の平安時代のようですね!
彼女の肌質は、まるで写真に写し取ったかのように、リアルな質感が見事に表現されています。
うわ~ホントに写真みたい!!この時代に、ここまで正確に緻密に表現しきっているのってすごい!!
コジモ1世と子どもたち
そして現在、ウフィツィ美術館の「ブロンズィーノの間」では、先ほどご紹介したビアやエレオノーラをはじめ、彼の手によるコジモ1世のファミリーの肖像画がずらりと並んでいます。
それぞれの人物の特徴をよくとらえた表現がいつ見ても惚れ惚れするんです。ファミリーだけあって顔立ちがよく似ています。
並んでいる肖像画はこんな感じ。
- 早世してしまった娘ビア
- 妻エレオノーラ・ディ・トレドと息子ジョヴァンニ
- エレオノーラとの長女マリア
- 長男フランチェスコ(後のフランチェスコ1世)
- 息子ガルツィア(?)
ウフィツィ美術館
エレオノーラの礼拝堂【ヴェッキオ宮殿】
こちらは、ウフィツィ美術館の北隣、ヴェッキオ宮殿の中にある、『エレオノーラの礼拝堂』。
政治の中心地で、コジモ1世とエレオノーラが結婚後、1540年に引っ越してきた新居です。その中のエレオノーラのための区画に設けられた、彼女専用の礼拝堂を、ブロンズィーノは担当しました。
コジモ1世は、とても強い絶対君主だったの。そして自分でもそのことを自覚していて、政治の中心であるヴェッキオ宮殿に住居を置くことによって自分の力の強さを知らしめる意図があったのよ
ちなみにヴェッキオ宮殿は建てられたときから現在まで、常に街の政治の中心地。いまでもフィレンツェ市の市役所が置かれています。
この礼拝堂は巨大な宮殿の一角にひっそりと作られていて、そこにあると知らなければ通り過ぎてしまいそうなほどさりげないですが、ブロンズィーノが施したフレスコ画は素晴らしいものです。
壁面は主に旧約聖書からエピソードが描かれていますが、このひとつひとつがすごい迫力と表現の豊かさに魅了されます!
人物の筋肉質かつ完全な形の表現や、マニエリスムの特徴であるからだをひねったポージングなどは尊敬していたミケランジェロの影響が見られますね。
そして、特にブロンズィーノの技術が優れているのは女性の姿の表現力。
美しく、柔らかく、とても人間らしい愛情のこもった表現。本当に女性の姿を清らかに美しく描くのに長けた作家だなぁ、と思います。
この女性は特に抱っこしている赤ちゃんの表情との差が激しく、つい見入ってしまいます。
ヴェッキオ宮殿、アルノルフォの塔、古代ローマ劇場遺跡
ザ・マニエリスムな「愛の寓意」【ロンドン】
こちらはロンドンのナショナル・ギャラリーにある、「愛の寓意」という作品です。
中心にいるのがヴィーナス、その口元にキスをしているのがキュービッド(=エロスまたはアモレ/ヴィーナスの息子)ですが、キュービッドの体は引き伸ばされ、不自然なバランスになっています。
右側の男の子(”喜び“)も体型としては妙に長く、体をひねった特徴的なポーズをしています。
こんな感じの、一見、ちょっと変… 😕 な印象を受ける特徴を持つマニエリスムという様式、17世紀以降は巨匠ミケランジェロの単なる模倣であり、「創造性を失った芸術」として低評価になりました。
ここから「マニエリスム」は型にはまって新鮮味がない、飽きた、つまらないといった「マンネリズム」の意味を持つようになったの
ブロンズィーノはどんな人物だったのか
ブロンズィーノの人生
ブロンズィーノは1503年、フィレンツェの肉屋の息子として生まれます。
貧しい家庭の子なので、幼少期の記録は残っていません。
最初に彼の人生が記録されるのは15歳頃、ラファエッリーノ・デル・ガルボという画家の工房に弟子入りしたこと、続いて後に師匠でもあり生涯の友人ともなるポントルモの工房で修行していたことです。
ポントルモの下での修業時代
師匠のポントルモというのは非常に変わった人で、大変な人嫌いで有名でした。どんな人かというと…、
- 自分が絵を描くときは2階の自分の作業場へはしごをかけて上り、そのはしごを外して誰も入ってこられないようにしていた
- 日常生活の記録魔だったようで、ものすごく細かい日記を残した
というようなエピソードが残る人物。
ポントルモの”憂鬱な”「十字架降下」。変わり者だった作者の性格と作品の特徴とは。
そんなポントルモと一緒にサンタ・フェリチタ教会での仕事が、恐らくブロンズィーノの最初の作品なの
ヴェッキオ宮殿からウフィツィ美術館を通り、ピッティ宮殿までを結ぶ「ヴァザーリの回廊」の途中にあるサンタ・フェリチタ教会。
ここにあるカッポーニ礼拝堂に4人の福音書記者(新約聖書の「〇〇の福音書」となる部分を書いた人)のフレスコ画を残しています。
描かれているのは礼拝堂の天井の4隅の部分。
一応4人のうちの2人はポントルモ作、2人はブロンズィーノ作とされているのですが(ヴァザーリの記録より)、見ての通りかなり画風が似通っていて、いまだにどれが誰の作かというのは学者の間でも意見が分かれています。
この時期はまだまだ師匠ポントルモの影響を色濃く受けているのがわかるわね
ちなみに正面の「十字架降下」はポントルモの作品です。
サンタ・フェリチタ教会
メディチ家の宮廷画家になる
1539年から、ブロンズィーノはメディチ家の仕事を請け負うようになりました。
最初の仕事は先ほどご紹介した、エレオノーラの希望に応じてヴェッキオ宮殿内の礼拝堂にフレスコ装飾をするものでした。
エレオノーラはことのほかブロンズィーノをお気に入りだったようで、自分や子どもたちの肖像画をたくさん注文していたようです。
妃殿下[エレオノーラ]はご自身の小さい肖像画と、また恐らく[息子]ドン・ガルツィア様の肖像画もそれとは別にご所望です。こちら[ピサ]では手早く下準備をするのに不都合がありますので、地塗りを施した画布を至急そちら[フィレンツェ]より送って頂けないでしょうか。(ブロンズィーノ、画家)
— フィレンツェ市民bot (@fiorentini_bot) 2017年4月19日
ブロンズィーノの人物像
残念ながら、ブロンズィーノの私生活や人となりを伝える資料はあまり残っていないんです。
本名ではなく「ブロンズィーノ(Bronzino / ブロンズ色の)」と通称されるのは髪の色がそうだったから、と言われることや、生涯を独身で通したことくらい。
他人の肖像画は数多く描いたにも関わらず、自画像はほとんど残しておらず、どんな人物だったのかはほぼ想像に頼ることになりますが、おそらく身近な人たちにとても愛情深く接したのであろうエピソードが残っています。
それは、師匠のポントルモと、弟子のアレッサンドロ・アッローリに関するもの。
左上の三人が左からポントルモ、ブロンズィーノ、アレッサンドロ・アッローリ
ブロンズィーノはポントルモと長らく生活を共にしており、ポントルモ亡きあとは弟子のアレッサンドロ・アッローリと暮らしていて、最期に亡くなったのもアッローリの家でした。
お葬式にはたくさんの同時代の芸術家たちが駆けつけ、その死を嘆き悲しんだということです。
これは想像でしかありませんが…
自画像をたくさん残した芸術家が同時代にもいたにも関わらず、彼はそうではなかった謙虚な人物。そして目立つわけではなかったけど、とても周りの人を大切にする穏やかな人物だったのではないでしょうか。
そうでなければ、気性が激しかったと伝えられるコジモ1世に気に入られることは難しく、大切な家族の肖像画をあんなにも任されることはなかったのではないかと思われるからです。
正確で繊細で、様式にのっとった「マニエリスム」の名にふさわしい、整った作品を残した、心優しい芸術家。
私の中のブロンズィーノはそんなイメージです。
いいやつだったよ