サンドロ・ボッティチェリ(Sandro Botticelli / 1445-1510)。
イタリア・フィレンツェのルネサンス芸術を代表する画家です。
作者の名前をもし聞いたことがなくても、代表作「春(プリマヴェーラ)」「ヴィーナスの誕生」を見たことがないという人は恐らくいないでしょう。
ボッティチェリ、いったいどんな人生を送ってどんな作品を残したんでしょうか?
目次
ボッティチェリはこんな人でした
アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・フィリペーピ。
これが通称サンドロ・ボッティチェリと呼ばれる画家の本名です。
ボッティチェリ(Botticelli)というあだ名の由来は、低い、太い、ワインで満たされた、という小樽のようなものを指す「Botteicello(ボッティチェッロ)」から来ていて、お兄さんがよく太っていて樽のような体型をしていたからとか。
いや、本人じゃないんかい!
ボッティチェリ、幼少の頃
1445年生まれ、日本でいうと銀閣寺を建てた足利義政と同じくらいの時代の人です。
出身はフィレンツェ、オンニッサンティ教会の近く。
オンニッサンティ教会生まれてすぐにヌォーヴァ通り(現ポルチェッラーナ通り)に引っ越します。
残念ながら家は現存していませんが、ここで育ち、ローマやピサで少し仕事をした以外はほぼフィレンツェで生涯を暮らしたようです。
また、結婚はせず、一生を独身で通しました。
それゆえか同性愛の嫌疑をかけられ(事実だったかもしれませんが)、心無い誹謗中傷にさらされるという辛い思いをして、それを反映したといわれる作品(「中傷」)も。
ボッティチェリは皮なめし職人を父に持ち、4人兄弟の末っ子として生まれました。
小さい頃は落ち着きがなく、読み書きなどの勉強が嫌いで手を焼いた父が、オラフォ(金細工師)のところに弟子入りさせました。
…というのは、ヴァザーリ先生の「芸術家列伝」によるものですが、この説は他の資料による裏付けがないので真偽のほどは謎です。
でも理由はともかく、絵画の才能を見出されそちらの道に進むことになり、ルネサンス芸術の代表作家として、歴史に名を残す大画家となりました。
ぶっとび師匠フィリッポ・リッピと協力者たち
彼の師匠として有名なのはフィリッポ・リッピ。
その繊細でエレガントな作風とは裏腹のぶっとんだキャラクターが面白い修道僧です。
リッピについての詳細はこちらの記事に。
フィリッポ・リッピ「聖母子と天使たち(リッピーナ)」美しい聖母マリアの秘密とは?このリッピとのつながりから得た仕事をきっかけに、メディチ家と出会い、後に「春(プリマヴェーラ)」を含む数々の作品の注文を受けるようになりました。
この頃はお金もたくさん稼いでいたんだと思いますが、江戸っ子のように
宵越しの銭は持たねえ!!
といったかどうかはわかりませんが、気に入った人たちにばんばんおごってしまう気前のいい性格で、お金を貯めるのは上手ではなかったようです。
ここでは1464年から67年(19歳から22歳)頃まで修行した様子。
リッピの工房で修行した後は、ヴェロッキオ工房でも少し協力しており、この頃に若きレオナルド・ダ・ヴィンチに出会ったようです。
二人が同時に工房に在籍したということ以外にどんな会話を交わした、とかいうエピソードは残っていないのですが、二人が一緒に師匠ヴェロッキオの作品を手伝ったことも。
その作品はこちら。
背景こそが面白い。ヴェロッキオ「キリストの洗礼」見どころを徹底解説!この時代にはよくあったことですが、ずっと一人の師匠に師事して浮気しない、というよりもあちこちの工房で修行したり、協力体制にあったりといった活動をしていた様子。
そして同時代に活躍していたポッライオーロとも少し共同体制にあり、二人が制作した作品を比べると、ポッライオーロには申し訳ないですが、ボッティチェリの才能が非常に際立っていることがよくわかります。
ボッティチェリ工房をオープン
1470年、最初の師匠フィリッポ・リッピが亡くなります。
この年、ボッティチェリは26歳で自分の工房を開きました。
彼の工房からは師匠フィリッポ・リッピの息子、フィリッピーノ・リッピも巣立っています。
ここからはフィレンツェの上流階級、特にメディチ家の注文を多く受け、数々の名作を世に送り出します。
時のメディチ家当主、ロレンツォ・イル・マニフィコも彼の才能を高く評価しており、ロレンツォの祖父コジモ・イル・ヴェッキオが始めたネオプラトン・アカデミーにボッティチェリも参加していました。
彼はこのサークルでの考え方を全面的に理解・支持して自分の作品に反映させていたのです。
その集大成ともいえるのが最も有名な「春(プリマヴェーラ)」、「ヴィーナスの誕生」を含む4連作。
また、これらの哲学を多く教わったマルシリオ・フィチーノやピコ・デッラ・ミランドラも登場する「ラーマ家の東方三博士の礼拝」もこの時期に描いています。
ボッティチェリの「東方三博士の礼拝」が表す、エピファニア(公現祭)の世界観。ロレンツォ・イル・マニフィコから絶賛されていたボッティチェリは、いわば「フィレンツェの芸術大使」として、当時の人気画家コジモ・ロセッリ、ドメニコ・ギルランダイオ、ピエトロ・ペルジーノらとともにシスティーナ礼拝堂のフレスコ画制作の仕事に携わります。
ドメニコ・ギルランダイオはミケランジェロの師匠、ピエトロ・ペルジーノはラファエロの師匠よ~
サヴォナローラとの出会い
ボッティチェリは30歳前後でメディチ家との親交を深めるようになったのですが、15世紀が終わりに近づく50歳前頃から、メディチ家(というか贅沢やフィレンツェの腐敗)を批判するドメニコ会の修道僧ジローラモ・サヴォナローラの教えに傾倒するようになり、自らの作品を焼いてしまったりもします。
やっ、焼い…!!??もったいない!!!
新興宗教にのめり込んでしまったような感じですね。
それでその後の時代は、それまでの華やかな画風から一転し、硬く宗教色の強い雰囲気へ。
私は個人的には、面白みに欠ける時代であまり好きではないんですが…彼の持ち味である素晴らしいファンタジーの世界が全く失われてしまっています。
世間の人も、やはりそれまでのように高く評価はせず、時代の混乱もあり(この時期、メディチ家はフィレンツェから追放されていました)、次第に絵は売れなくなっていき、最期はひっそりと1510年、65歳でその生涯を終えました。
長く暮らした家の近く、オンニッサンティ教会に葬られ、今でもお墓が見られますが、墓碑には「ボッティチェリ」とは一言も書いていないので、知らなかったら気づかなさそう…
でも最近、遺影?らしきものが置かれたんですよ!
彼が再評価されるのは19世紀終わりになってからのことで、わずかにここ100年ちょっと前のことなんです。
1919年に「春」はウフィツィ美術館に収められ、それから現在まで途絶えることなく世界中からみんながその美しさを堪能しにやってきています。
ボッティチェリのキャラクター
ボッティチェリの性格を伝える資料はあまりたくさん残されていないのですが、わずかに残る情報からちょっとお茶目でいたずら好きの一面があったことがわかるエピソードがあります。
それは、オンニッサンティ教会にある「書斎の聖アゴスティーノ」というフレスコ画の中への落書き。
この作品は、書斎で神からの啓示をうける聖人の様子を描いた非常に真面目なテーマなんですが、その背後に開いて置かれた本の中にこんな一文が。
「マルティーノ修道士はどこ?逃げたよ。で、どこ行った?プラート門の外さ」
このマルティーノ修道士っていうのは、このオンニッサンティ教会の所属でボッティチェリの仕事をしぶしぶ手伝っていた人か、何らかの支払いを理由をつけて逃げていた人なのではないかと推測されています。
どちらにしてもお堅い宗教的テーマの作品で、隅の方とはいえ、こんな冗談を発揮する人って珍しいですよね!
ボッティチェリの代表作品
ボッティチェリの人生は65歳と、当時としては長すぎず短すぎず。
一時的に人気が落ちたとはいえ当時から人気のあった画家なので、現在まで保管されている作品数もなかなか多いのですが、人生の様子というか考え方とかマイブーム的なものが作品にダイレクトに反映される人なので、時系列に作品を眺めるとどんな時期だったのかがとてもわかりやすい人です。
最初期の作品には、師匠フィリッポ・リッピの影響がはっきりと見られます。
独立して工房を開いてからの作品は、師の影響から少しずつ離れ、自分の画風を確立させていきます。
ラーマ家の依頼であるにも関わらず、多くのメディチ家メンバーの肖像を描いた「東方三博士の礼拝」は、1475年(30歳頃)のもの。
ロレンツォ・イル・マニフィコの推薦でバチカンに派遣されたのが1481-82年(36-37歳)頃。
そしてフィレンツェに戻ってからはメディチ家の庇護のもと、最も有名な神話の世界シリーズ「春(プリマヴェーラ)」「ヴィーナスの誕生」「パラスとケンタウロス」「ヴィーナスとマルス」を製作します。
同じくウフィツィ美術館所蔵の豪華な「マニフィカトの聖母」もこの頃の作品。
しかし後半、サヴォナローラに心酔するようになってからは画風がガラリと変わります。
それまでの華やかな雰囲気から一気に固く、厳しい雰囲気の作品へ。
またこれ以降は異教的な古代ローマ・ギリシア世界にインスピレーションを得た作品ではなく、カトリックの宗教画をメインに手掛けます。
しかしこういう変化はパトロンたちの心をつかむことはできず、フィレンツェにはこれ以降の時代の作品はほとんど残っていません。
また、彼自身、1501年(56歳)頃を最後に絵筆をとることをやめてしまいました。
もし、メディチ家が追放されることがなかったら。
もし、ボッティチェリがサヴォナローラに心酔することがなかったら。
歴史にタラレバはないんですが、もしも違う歴史が存在したとしたら、またもっと華やかな作品が生み出されていたかもしれませんね。