フィレンツェといえば、キャッチコピーは『芸術の都』。
街の至宝、ウフィツィ美術館には『ヴィーナスの誕生』『春』『受胎告知』『ウルビーノのヴィーナス』…、アカデミア美術館やバルジェッロ美術館には『ダヴィデ像(ドナテッロ&ミケランジェロ)』、パラティーナ美術館には『小椅子の聖母』『マグダラのマリア』…、などなど、推挙にいとまがないほどにありとあらゆる場所に芸術作品が溢れています。
この街がここまで豊かに芸術作品で彩られるようになったのは、15世紀に台頭するメディチ家という一家のおかげに他なりません。

あ、出た、メディチ家!フィレンツェといえば…で必ず名前が出て来るおうちだよね
世界史の教科書にも出て来る、有名なこの一族。実はメンバーも個性様々でなかなか興味深いんですよ。しかも、教養の高い人びとで、それゆえに美に対する審美眼も優れた人が多かったのです。
ということで、現在のフィレンツェの礎となる芸術品を収集した偉大な一族の足跡をたどる観光スポットをご紹介します!
目次
メディチ家の台頭
フィレンツェは、実は長らく特産品といえるようなもののない内陸の地だったので、中世に加工貿易に力を入れるようになってから、街は飛躍的に発展します。
特に強かったのが織物業と金融業。14世紀頃まではそれらの業界のドンみたいな上流階級の家が富裕層として街の政治の実権を握っていました。
そこに登場したのが、メディチ家です。
その始祖ともいえるジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチという人が、銀行業を中心に一族の経済状況を活性化させ、その後継者コジモ(イル・ヴェッキオ)がその家業をヨーロッパ中に広げて一族の経済的基盤を確固たるものにしました。

そしてその孫にあたるロレンツォ・イル・マニフィコ(豪華王)の時代には、いわゆる「ルネサンス」と呼ばれる華やかな『芸術の都』としての発展、その時代の素晴らしい作品の数々が現代にも伝わり、メディチ家の名を記憶にとどめています。

ルネサンス!イタリアの美術、イコールそれみたいなイメージがあるなぁ~

そうね、もちろんそれだけではないんだけど、一般的に一番メジャーなのはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロが登場する盛期ルネサンス時代でしょうね!そしてブルネレスキやマザッチョ、ドナテッロが登場する初期ルネサンスも素晴らしいわよ
それでは、そんなメディチ家の足跡をたどることができる観光スポットを巡ってみましょう!
メディチ家代々ゆかりの観光スポット
メディチ・リッカルディ宮殿・・・典型的なルネサンス建築の宮殿
さて、まずはメディチ・リッカルディ宮殿。後半の名前リッカルディというのは、後にメディチ家から買い取ったお家の名前なので、建築当初はもちろん「メディチ宮殿」と呼ばれていました。
こちらの建築が開始したのは1444年、当主はコジモ・イル・ヴェッキオ(Cosimo il vecchio; Cosimo di Giovanni de’ Medici / 1389-1464)の時代。

メディチ家にはコジモという名前の人がたくさんいるんだけど、この人が一番初めの有名なコジモね。彼は『祖国の父』という呼び名が贈られるほどにフィレンツェの街づくりに貢献した人と言えるわ

メディチ・リッカルディ宮殿の外観
さて、この宮殿は「典型的なルネサンス様式」と言われます。

その特徴は、一言でいうと「立体的グラデーション」。

立体的グラデーション…??
3階建てなんですが、それぞれの階の違いに注目してみましょう。
3つの階のうち、最も天井が高いのは1階、その次が2階、そして最上階は一番天井が低くなっています。
さらに、外壁に使われている石もよく見てみると、1階はごつごつした岩のような石でサイズも大きいですが、2階、3階と上がるにつれてサイズが小さくなりだんだん滑らかな加工になっていきます。

たしかに…!現代の建物だったら上から下まで同じ見た目になりそうなものだよね
建築を請け負ったのはミケロッツォ・ディ・バルトロメオで、ブルネレスキをとても尊敬していたので、彼のデザイン様式を参考にして中庭に取り込んでいます。

内部装飾『マギ(東方三博士)の礼拝』
宮殿内部で最も有名なのは、『マギ(東方三博士)の礼拝堂』と『鏡の間』の二部屋です。

この礼拝堂は壁がすべてフレスコ画で『東方三博士の礼拝』が描かれており、行列の行きついた先には、一枚の板絵『イエスの生誕』。

この行列には夥しい数の人や馬、動物などが描き込まれていますが、その中にはメディチ家のメンバーや作者ベノッツォ・ゴッツォリが肖像画として登場しているのも面白いところです。
内部装飾『鏡の間』
続いて『鏡の間』、こちらは17世紀バロック時代を代表する画家の一人、ルカ・ジョルダーノの作品です。


こちらもとても広い空間で、天井いっぱいに主に神話に題材を取った様々な人物や生き物が描き込まれています。
この時代には様々な寓意の擬人像が描かれることが多く、その謎解きをするのも楽しみのひとつ。実はオーダーしたのは宮殿を買い取ったリッカルディ家なんですが、メディチ家のメンバーが作品の中に似顔絵として登場しています。
ずっと天井を見上げることになるので、ゆっくり座ってしっかり時間をとって鑑賞したいですね。オペラグラスや双眼鏡があると、細かいところがよく見えて便利ですよ!
『メディチ・リッカルディ宮殿』のチケット情報・開館時間などはこちら

サン・ロレンツォ聖堂・・・ブルネレスキのセンスが光る、メディチ家の菩提寺
メディチ・リッカルディ宮殿の斜め後ろの区画にあるのが、サン・ロレンツォ聖堂。

教会自体は4世紀には存在していたと伝えられる非常に歴史の古いものですが、ここにはメディチ家の始祖ジョヴァンニをはじめ、数々のメンバーが眠っています。さらに、後で出て来るメディチ家礼拝堂とも深い関連がある教会です。
1418年、教会の改築プロジェクト始動
教会内部が現在見られるような姿に(ほぼ)なったのは、15世紀の話。
当時の教会のサイズは今よりもずっと小さかったのですが、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチが教会拡張のためのお金を出し、お気に入りの建築家フィリッポ・ブルネレスキに、教会の改築をオーダーしました。

ブルネレスキの世界観満載の内部プラン

どうでしょうか、この落ち着いた神聖な空間。実際に入ってみると、色合いと光の入り具合のバランスで、とても明るいながら静謐な調和のとれた空間です。

ブルネレスキといえば、とにかくひとつのパターンを基準として繰り返し連続する空間の設計をするのが特徴よ
縦、横、高さ、奥行き、すべてのパーツが同じ寸法をベースに設計されていて、また色も白とグレーで統一。そのおかげでとても整った格調高い雰囲気が生まれています。
この他に、身廊部分前方にドナテッロによる一対の『説教壇』があります。落ち着きのブルネレスキと対照的な、ドナテッロによる臨場感あふれる世界の描写が見どころ!

初期ルネサンスの巨匠の競演ね!ちなみにこの『説教壇』はドナテッロの遺作よ~
『旧聖具室』
1421年頃、教会の改築プランはほぼできあがり、旧聖具室の建築が開始されます。


ここもザ・ブルネレスキ!な、彼のこだわり満載の空間ね~
ここは数々のプロジェクトを手掛けたブルネレスキが、唯一、生前に完成を見届けた建築作品でもあります。

それから、ここは親友ドナテッロとの共作でもあるのよ~二人の性格の違いがわかって、そういう意味でもとても面白い作品ね!
几帳面で四角四面なブルネレスキと、自由奔放で好奇心旺盛なドナテッロの個性がそれぞれ建築、そして彫刻と装飾において光っています。
ここは小さな空間ながら、見るべき場所がいろいろ。まず部屋の真ん中には、教会の改築に出資したジョヴァンニとその妻のお墓が設置されています。

それから、正面の祭壇部分の天井には夜空が描かれたフレスコ画があります。当時の著名な天文学者だったパオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリの指導に基づいて、ペセッロが描いたとされている「1443年7月4日」の夜空です。
謎に満ちたこのフレスコ画について、詳しくはこちら!

そして、出入り口付近にもう一つ、コジモ・イル・ヴェッキオの息子でロレンツォ・イル・マニフィコの父であるピエロ・イル・ゴットーゾとその弟ジョヴァンニのお墓があります。
作者はアンドレア・デル・ヴェロッキオ、素晴らしく細やかな装飾の彫刻が施された棺で、赤と緑の花崗岩の他にブロンズが組み合わせてあり、とても美しい作品です。
ちなみに作者アンドレア・デル・ヴェロッキオは、あのレオナルド・ダ・ヴィンチの師匠です。

ヴェロッキオは弟子であるレオナルドがあまりに絵が上手かったから、「その絵筆を折って二度と絵を描くことはなかった」なんてヴァザーリに書かれちゃったんだけど、そもそも本業は彫刻家なのよね~

中庭と地下

サン・ロレンツォ聖堂の中庭は『オレンジの中庭』と呼ばれ、その名の通りオレンジの木が植えられています。
中庭の回廊越しにブルネレスキのクーポラがちらりと見えている景色も綺麗ですね。
ちなみに、ここから地下に降りることができて、コジモ・イル・ヴェッキオのお墓と、そこからそう離れていないところにドナテッロのお墓もあります。


コジモはドナテッロがことのほかお気に入りの芸術家だったから、遺言で「ドナテッロは自分のお墓の近くに葬るように」と残したぐらいなのよ~
『サン・ロレンツォ聖堂』のチケット情報・開館時間などはこちら

ヴェッキオ宮殿・・・メディチ家の栄光を称える数々の装飾
そして、次はヴェッキオ宮殿へ。現在もフィレンツェの街の中心地、ダヴィデ像のコピーがあることで有名な大きな広場の前にあるこれまた大きな宮殿です。

こちらは建築開始が1299年、アルノルフォ・ディ・カンビオのプロジェクトにより、行政長官の館、つまり政治的なトップの居所として計画されました。
五百人広間ほか、メディチ家の祖先に捧げられた部屋
宮殿は15世紀および16世紀にさらに増築され、現在の面積に。1540年、メディチ家の当主コジモ(1世)が当初住んでいたメディチ・リッカルディ宮殿からこのヴェッキオ宮殿に引っ越してきます。
政治の中枢であるこの建物に自ら住まう、つまりそれは自分こそがこの町の支配者であることを誇示するためでした。
この時代に、ヴェッキオ宮殿の内部の多くはメディチ家の栄光を称える装飾がなされ、それは現在でも見ることができます。

『地図の間』と『ストゥディオーロ』
コジモ1世はさらに、最上階に『地図の間』を作らせます。こちらではヨーロッパ各地から始まり、アフリカ、アメリカ、インド、アジアなど世界各国の地図がたくさんのパネルに表されています。

かなり現在の地図に近い形で表現されているので、当時のイタリア人の測量知識に驚かされます。それから、ところどころに、特にアフリカなどに現地の生きものが書きこまれていたりするのも、じっくり探すとちょっと面白いですね!


実は日本も描かれていますよ!探してみてください…ただし、日本列島の形を探すと見つけられません…笑
さらにコジモの息子のフランチェスコ1世も、この宮殿内に自室『ストゥディオーロ』を作り、そこに趣味のコレクションを収めていました。


お父さんの『地図の間』と比べて、息子フランチェスコの『ストゥディオーロ』はとても小さい空間…外に目を向けていた父と内向的な子の対照的な性格がよくわかるわね~
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ピッティ宮殿・・・豪華絢爛、メディチ家の栄華が大集結
メディチ家は16世紀に住居をヴェッキオ宮殿に移しましたが、ほどなくしてこのピッティ宮殿を買い取ります。
実はこのタイミングで、先ほどの宮殿は名前が「ヴェッキオ宮殿」になりました。

実は…ヴェッキオとは「古い」という意味です!
街の支配者であるメディチ家が新しい宮殿に移ったことで、こちらは古くなったので、このように呼ばれるようになったのです。

あ、じゃあ、『ポンテ・ヴェッキオ』も・・・?
正解!街で一番古いから、「ヴェッキオ」橋です!

このピッティ宮殿、そもそも建築したのはピッティ家というメディチ家のライバルでした。15世紀の建築当初は実は現在のものと比べてかなり小ぶりなサイズで、正面の長さはざっくりと今の1/3ほどでした。

これをメディチ家のコジモ(1世)が買い取り、代々増築していったのです。


増築のときには当初のスタイルを維持したまま拡張していったから、最初のサイズはもちろん、どこを拡張したのかもほぼわからないでしょ~
なのでスタイルとしては15世紀のルネサンス様式を維持しているのですが、内部装飾は時代に応じてどんどん変更されています。
パラティーナ美術館とメディチ家の財宝コレクション
外は割と地味な印象ですが、中はかなり豪華絢爛。

広大な宮殿の中には複数の美術館が入っていて、最も有名なのはラファエロ・コレクションなどを有する2階のパラティーナ美術館ですが、1Fのメディチ家の財宝コレクションも見ごたえあり!

メディチ家は大体300年ほどフィレンツェの実質的な支配者であったんだけど、その代々のメンバーの趣味がそれぞれ違うから、いろんな種類のコレクションがあるのよ~そしてそのどれもが超一級品だったのよね

メディチ家は、いわば地方の一小国の領主であったにもかかわらず、時のオーストリア皇帝に肩を並べられるほどの、物を見る目を持っていたのです。
趣味が様々で、象牙、琥珀、エメラルドや翡翠、ラピスラズリなどの貴石、ジュエリー、その他いろいろなジャンルに及ぶ膨大なコレクションが並びます。
さらに1861年、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世によるイタリア統一後、王国の首都が一時的にここフィレンツェに置かれました。そのため、宮殿内部(2F)には王家の居室ゾーンも残されています。
ボーボリ庭園
宮殿の後方にはこれまた広大なボーボリ庭園があり、四季折々の自然風景が楽しめます。


でも中は本当に広くて迷路みたいだし、アップダウンもかなりある丘の上に作られた場所なので、半日か一日ぐらいは使うものと覚悟したほうがいいかも…
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メディチ家礼拝堂・・・メディチ家の栄華、そしてミケランジェロの世界観
最後に、メディチ家の代々(後半)のメンバーが眠る、メディチ家礼拝堂に行きましょう!
地下祭室
入ってすぐの地上階は、建物全体からいうと「地下祭室」の扱い。ここにはメディチ家後半(16世紀のコジモ1世以降)のメンバーのお墓があります。

ここに堂々と鎮座しているのが、メディチ家最後の女性、アンナ・マリア・ルイーザ。彼女は自らが引き継いだ莫大な一族の財産を国外に散逸させないために、ある協定を当地トスカーナ大公国後任のロレーナ家と結びます。
彼女なくしてフィレンツェの現在の姿、『芸術の都』は存在しえなかったかもしれません。街にとってとても偉大な人です。

君主の礼拝堂
そして階段を上がって2階へ。まずは『君主の礼拝堂』に入ります。


わぁ、すごい・・・!
圧倒的に広い空間と、素晴らしい装飾!!
この場所のプロジェクトは16世紀の初代トスカーナ大公コジモ1世に始まるのですが、実際に工事が開始したのはその息子、フェルディナンド1世の時代。彼のお気に入りの技術だった輝石モザイクという技術を使い、壁や床を装飾させました。

肖像の彫刻が全部ないのはどうして…?
残念ながら、メディチは途中でその家業である銀行業をやめたんです。つまり、お金が足りなくて…。
それでも、お金のかかるモザイクをやめてフレスコ装飾にしたり(天井画)など、工夫しながら工事を続けました。

で、最終的に全部が仕上がったのはなんと1962年!もう、現代ね~
この空間の奥には、メディチ家初のローマ教皇へと昇りつめたレオ10世のお宝が保存されています。

新聖具室
礼拝堂を出て次の空間に行くと、『新聖具室』に着きます。

ここは設計プロジェクトから彫刻まで、ほぼミケランジェロの手になる空間です。名前が『新聖具室』であることからもわかるように、サン・ロレンツォ聖堂内のブルネレスキが手掛けた『旧聖具室』と対になっています。

入り口は現在は別だけど、実はこのメディチ家礼拝堂という建物全体はサン・ロレンツォ聖堂の一部なのよね~

ここには幼い頃のミケランジェロの才能を見出し、パトロンとなって育ててくれたロレンツォ・イル・マニフィコとその弟ジュリアーノ、そしてロレンツォの三男であるネムール公ジュリオ・デ・メディチとロレンツォ・イル・マニフィコの孫にあたるウルビーノ公ロレンツォのお墓もあります。



ブルネレスキ作品と同様に静謐な空間でありながら、空間的な広がりを感じさせる設計や躍動感のある彫刻などにミケランジェロらしさが表れています。

ちなみにミケランジェロは、動乱の時代にこの聖具室の下の秘密の空間に隠れていた、と言われているのよ~

『メディチ家礼拝堂』のチケット情報・開館時間などはこちら

メディチ家の歴史とコレクション
メディチ一族の歴史博物館・・・メディチ家の歴史を概観
メディチ家は1400年前後から1700年代前半まで、当主だけで13人、その他歴史上重要な人物が5人。その歴史と、さらにそれぞれの功績やコレクションなど、大切なものをざっくりと把握することができる、メディチ家の歴史を語る博物館が2023年にオープンしました。
規模の小さな博物館ながら、『メディチ家』というファミリーを理解するのに必要な情報が概観できます。

そして、メディチ家関連の観光スポットを巡ると必ず目に入ってくるあの印象的な紋章。そのストーリーについてはこちらもきっと参考になります!

ウフィツィ美術館・・・メディチ家珠玉のコレクション
さて、メディチ家の足跡をたどる観光スポットめぐりはいかがでしたか?
それぞれの場所は、メディチ家のメンバーが生活していたり、眠っていたりと本人たちにも非常に関連の深い場所ですが、忘れてはいけないのはウフィツィ美術館。世界的に有名で年間入場者数が500万人を超える(2024年)、超人気美術館です。ここは初代トスカーナ大公コジモ1世の希望で作られた建物で、内部にはメディチ家代々のメンバーが手をかけて収集した世界に誇れる作品の数々が収蔵されています。

作品そのものも素晴らしいですが、鑑賞するときにはぜひ!それらを収集してきたメディチ家のメンバー、そしてそれを国外に散逸させることなくここフィレンツェにとどまらせた最後の女性、アンナ・マリア・ルイーザに思いを馳せてみてください。