14世紀後半以降にフィレンツェに現れたメディチ家。
彼らは町の政治的な改革や文化の保護などを積極的に行い、その後300年以上に渡って街の中心的な存在であり続けました。
現在でも宮殿の外壁や、美術作品の中など、フィレンツェの街にはいたるところにメディチ家の紋章を見ることができます。
目次
メディチ家の紋章
デザイン
オーソドックスなものは背景が金色(黄色)に6つのボールがついているもの。
でも、これは当初からこういうデザインだったわけではないのです。
実はよく見ると、フィレンツェとその周辺の街にはいくつかのパターンの紋章を見ることができます。
大きく違うのは、ボールの数(3つから9つまで)、ボールの色(全部赤、または一部が青)、紋章の周りに+αでついている飾りなど。
紋章が表している意味
基本的にボールがついているのね…そもそもこのボールは何を表しているの?
これは実は、はっきりとはわかっていないんだ!
いくつかの説があって、
- メディチ家の祖先が戦いの際に盾で受け止めた棍棒の跡
- メディチ家の祖先が医師または薬屋だったので、丸薬を表す
- メディチ家は、中世から大きな権力を持っていた両替商組合に所属したため(→両替商組合の紋章がよく似ている)
などが挙げられています。
さて、ここで問題!!!
実はこの紋章、全て同じ時代に使われたものではなく、時代ごとに違うものが使われていました。
では、一番古いのはどれで、一番新しいのはどれでしょう??
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えーっっと…やっぱり、最初は少なくて、お家が栄えるごとに増やしていったとか…?勲章みたいな感じで…だから①から⑥の順??
残念!不正解!!
さぁ、あなたはわかりましたか?
ヒント!!両替商組合の紋章はメディチ家の紋章とよく似ているぞ!!
両替商組合は、1200年代頃からフィレンツェの街に存在し、街の政治に関して大きな権力を持っていました。
フィレンツェでメディチ家が台頭し始めたのは1300年代の後半。つまり、メディチ家の紋章よりも両替商組合は古くからありました。
メディチ家の家業は、銀行業。両替商組合とはとても深い関連があります。
ここから紋章を作ったかどうかは定かではないが、メディチ家以前からあった組合の方が「数が多かった」…これがヒント!!
メディチ家の紋章はこう変化しました
それでは正解です!
15世紀前半:コジモ・イル・ヴェッキオ
まず最初は、⑥のボール8つから!
6つのうち最も古い紋章は、一番ボールの数が多い⑥の8つ。
一説によると、もともと11あったそうです。
なぜ、数を減らしたのかはわかっていませんが、⑥のボール8つの紋章はコジモ・イル・ヴェッキオ(Cosimo il vecchio / 老コジモ / 1389-1464)の時代のもの。
上の写真の紋章はサン・ロレンツォ教会の旧聖具室にあります。また、サン・マルコ教会の中にも同じく彼の紋章が。これは、コジモ・イル・ヴェッキオが融資を行い、その修道院関連施設を再築させたためです。
しかし実は、一番少ない①の3つも彼の時代なんです。
この頃は、まだ「家紋」というのが固定されておらず、同じ人物であってもいくつかの種類を使っていたんだ!
えーっ…一人で何種類も…??そういうものなんだ…
ボールの数が固定されるのは、コジモ・イル・ヴェッキオのあとさらに70年以上過ぎた頃のことです。
これにはちゃんとしたいきさつがあるんだ!詳しくはまた後で!
15世紀半ば:ピエロ・イル・ゴットーゾ
次は⑤ボールが7つバージョン!
コジモ・イル・ヴェッキオ時代の紋章からボールが一つ減って、⑤7つは老コジモの息子、ピエロ(Piero il Gottoso / 痛風病みのピエロ / 1416-1469 )の時代のものです。
「痛風病みの」などと不名誉なニックネームをつけられてしまった彼ですが、政治手腕はなかなかのものでした。
色違いのボールの由来
実は、ピエロ・イル・ゴットーゾ以降の②③④⑤は、ひとつだけ色違いのブルーが混ざっています。
このブルーには百合の紋章がつけられています。
フィレンツェ市のマーク?
うーん惜しい!!実はこれはフィレンツェではなく、フランスのヴァロワ家の紋章から来ているんだ!OK?
なんで突然フランス…??
これはピエロ・イル・ゴットーゾが大役を果たしたおかげなんだ!
それは1400年代半ば、ピエロがフィレンツェ大使としてフランス王ルイ11世に挨拶に行ったときのこと。
余はそちが気に入った!特別に、我がフランス王家の百合の紋章を使うがよいぞ
と、王に非常に気に入られ、許可を得たのでそれを一族の紋章に取り入れたのです。
ほぉ~ピエロさん、なかなかの世渡り上手だったんだね!
こうして新たに青字に金の百合の紋章が追加され、合計のボールの数は6つとなり、ピエロよりあとの②③④はそれ以降の時代のものです。
ちなみにそれぞれ使用した人は
- ②=ローマ教皇レオ10世(Giovanni di Lorenzo de’ Medici = Leone X / 1475~1521)
- ③=アレッサンドロ・デ・メディチ(Alessandro de’ Medici / 1510~1537)
- ④=コジモ1世(Cosimo I de’ Medici / 1519~1574)以降
16世紀初頭:メディチ家初の教皇、レオ10世
この紋章を使用したレオ10世は、メディチ家出身で初めてローマ教皇に上りつめた人で、ロレンツォ・イル・マニフィコ(Lorenzo il Magnifico / ロレンツォ豪華王 / 1449-1492)の次男です。
コジモ・イル・ヴェッキオから見るとひ孫の代だな!ちなみにミケランジェロとは同い年で幼なじみだぞ!
レオ10世は父ロレンツォから「賢い」と評された人物でしたが、生まれた時から裕福な家に育ち、また美しい芸術品に目がない典型的なお坊ちゃま育ちでした。だから、勉強はできたんですが、お金の使い方は上手ではありませんでした。
というかむしろ、派手好きで無駄使いが多かったんだ!
結果、ローマ教皇庁のお金を使い過ぎてしまい、悪名高い「免罪符」を発行することに。これにより、宗教改革の波を呼び起こしてしまいます…
そして後世の人々から
レオ10世は先代と自分の代、そして次の代の3代分の教皇庁の財産を使い果たした
と揶揄されてしまいました。チーン
このレオ10世が教皇に即位するにあたり、自分自身の紋章が必要でした。
この時点まではメディチ家の紋章は時期や機会によってあれこれ変化していたんですが、この時レオ10世が使用したボール6つの紋章が、一家の紋章としてこれ以降受け継がれることになりました。
ちなみにレオ10世の紋章の上についている冠と鍵はローマ教皇を表しますので、別の家出身の教皇の場合はこの部分が同じで中の紋章だけが変わります。
レオ10世とその同級生、チェーザレやミケランジェロ、父ロレンツォなどが活躍する歴史がわかりやすく描かれているのがこちら!
『チェーザレ・ボルジア~破壊の創造者』15世紀末イタリアが舞台のおすすめ漫画!16世紀~:トスカーナ公、トスカーナ大公の紋章
ボールの数は6つで固定されたけど、ここからさらに紋章が進化するぞ!
次は③のアレッサンドロ・メディチの紋章。彼はトスカーナ公という地位を得ます。さらに次の代にトスカーナ公となったコジモ1世は、後年トスカーナ大公というさらに高い地位を授けられました。ということで、④の王冠付きはトスカーナ大公を示すもので、コジモ1世以降使用されるようになりました。
さっき出てきたコジモ・イル・ヴェッキオとはまた別のコジモだよ!
トスカーナ大公とは1569年に成立したトスカーナ大公国を治める領主のことで、いまのフィレンツェがあるトスカーナ州の前身となった領地です。
この大公国の初代大公として教皇ピウス5世に任命されたのがコジモ1世でした。
同じボールが6つの紋章でも、その周りのシンボルがヒントになって、大体の時代が判断できます。
番外編~2つ(以上)の紋章が合体すると
16世紀以降、メディチ家の紋章と他の家の紋章が半分ずつ描かれているデザインのものがあります。
これは、結婚したカップルの紋章となり、左側が男性、右側が女性の家の紋章を表しています。
上の写真で言うと、右下の一枚だけは右側にメディチ家の紋章があるので、この場合はメディチ家出身の女性とその配偶者の紋章。メディチ家最後の女性アンナ・マリア・ルイーザとプファルツ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムを表しています。
メディチ家「最後の女性」フィレンツェの芸術を守ったアンナ・マリア・ルイーザ。それぞれどこにあるの?
今回ご紹介した紋章は、それぞれ次の場所にあります。
- フィエーゾレ大修道院
- メディチ家礼拝堂
- オンニッサンティ教会
- ヴェッキオ宮殿
- メディチ・リッカルディ宮殿
- サン・ロレンツォ聖堂旧聖具室
なお、①の3つは非常に珍しく、これは私は一度しか見たことがありません。
フィレンツェの街のあちらこちらで見かける紋章、よく注意してみると色んなことがわかって面白いですよ。
街歩きの際はたくさん探してみてくださいね!