ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(Giovanni di Bicci / 1360-1429)は、メディチ一族の創始者と呼ぶべき人物。
もちろん、彼の父や祖父、そして祖先もメディチ家の一員ですが、フィレンツェの歴史においていわゆる「メディチ家」としてイメージされる一族は彼から始まります。
時は14世紀後半、フィレンツェの街でその後300年以上に渡って繁栄する一族の祖が生まれました。
目次
ジョヴァンニ・ディ・ビッチの生涯
遠縁のVieriから引き継いだ銀行業のローマ支店をフィレンツェに移す
1408年、1411年にも就任
ヴェネツィア、ローマ、ナポリなど
「ローマ教皇庁の財政上の責任者」の地位を得る
誕生~若年期
1360年2月18日、毛織物商のアヴェラルド・ディ・キアリッシモ・ディ・メディチ(Averardo di Chiarissimo di Medici / 1320-1363)のもとに誕生。みずがめ座です。
ジョヴァンニが3歳のとき、父は死去。幼少時の記録は特に詳しいことが残っていないのでわかりません。
彼の活動が目立って来るのは遠縁のヴィエーリ・デ・メディチのもとで銀行業に携わるようになってからのこと。
メディチ銀行の創設
遠縁のヴィエーリのもとでローマ支店での銀行家としての修行を積んだ後、結婚相手のピッカルダ・ブエーリの持参金を原資に少しずつ事業を発展させていきます。
ヴィエーリ・デ・メディチの死後、1397年に銀行のローマ支店をフィレンツェに移し、ここからが後にヨーロッパじゅうに力を及ぼす「メディチ銀行」としての活動スタート。
ちなみにフィレンツェ初のメディチ銀行はこの辺りにありました!
街のど真ん中で、とてもいい立地ですねー
この両替商というビジネスのおかげで、メディチ家には潤沢に資金があり、彼の子孫に至るまで芸術を保護し発展させることができました。
しかし、銀行家というのは当時のフィレンツェにメディチ家だけでなく、たくさんいました。その中で特にメディチ家が飛躍的に発展できた理由、それは…
ジョヴァンニ・ディ・ビッチは対立教皇ヨハネス23世の「信託代理人(=財政上の責任者)」に就任することができたからなのよ~
※「対立教皇」とは:1378~1417年にかけてローマ教皇庁が分裂した時代に、正当な教皇に対抗して擁立された教皇、または自ら教皇であると宣言するもその地位が正当なものだとは認められなかった存在。
これはジョヴァンニ・ディ・ビッチ53歳のときの話ですが、対立教皇とはいえ、ローマ教皇庁のお金の問題に口を出すことができる、つまり世界を牛耳る人の懐具合を知ることができるというのは当時の世界においては非常に有利になります。
メディチ家は教会分裂終了後のローマ教皇マルティネス5世の時代においても、同じく教皇に融資を続けたことにより、金融界での地位を確固たるものにしていきました。
政治の世界へ
40代前半まではビジネスマンとして活躍していたジョヴァンニでしたが、40代に入って政治の世界に少しずつ参加していきます。
それまではあまり政治の世界に関わりが深くなかったんですね。
というよりむしろ、意図的に政治的な動向からは距離を置こうとしていたと言われているわ
まず、42歳の時、自分も加入する両替商組合の長という立場に選ばれます。
かなり信任が厚かったようで、このあと2回も再選を果たします。
そして59歳の時にはフィレンツェの最高行政会議のメンバーに選ばれます。
さらに2年後の61歳の時、行政のトップである「正義の旗手(Gonfaloniere di Giustizia)」へ。これは現代日本でいう内閣総理大臣のような地位です。
カタスト法の制定
しかし、高い地位についても商人出身のジョヴァンニの性質は基本的には変わりませんでした。
彼は特権的地位を利用することよりも常に民衆とともにあろうとし、自分もヨーロッパ随一の高機能を誇るフィレンツェ共和国という街の一市民であることを心がけていました。
そんな彼が主要メンバーの一人となって制定されたのが「カタスト法」(1426年)です。
これは、税制改革のひとつで、所有する不動産に対して税をかけることを決めた法律でした。
当然、不動産をたくさん所有する裕福な貴族階級からは猛反発にあいます。もちろん、メディチ家だってそれなりの資産を持っていたはずですから、自分自身も今までよりも多くの税金を払う必要があります。
しかし、それ以上に共和国には収益をもたらすことになるため、民衆からは大歓迎。感覚的には生活の苦しい人からよりも裕福でゆとりのある人から集めてほしいですよね。
また、翌1427年には貴族たちの勝手な動きに、個人として反対する動きを見せることで民衆からの支持は高まりました。
この時は、貴族たちは小さな組合を減らして反対勢力を抑えようとしたり、政治において禁止されていた貴族の投票権を復活させようとしていたのよ~
このように常に民衆の利益を優先し、フィレンツェ共和国の発展に心を砕いたジョヴァンニは、1429年、69歳でその生涯を閉じました。
彼と妻ピッカルダは、現在フィレンツェのサン・ロレンツォ教会旧聖具室に眠っています。
この旧聖具室には、美しい夜空を描いた装飾があり、そこにはちょっとした謎が…
サン・ロレンツォ聖堂の旧聖具室、謎解きが待たれる夜空のヒミツ…その日、何があったのか?ジョヴァンニ・ディ・ビッチの人柄と信条
民衆の味方
上でも出てきましたが、ジョヴァンニは自分を特権的階級として誇示するのではなく、常に民衆と同じ目線で同じ立ち位置にあろうとしました。
この性質はメディチ家に伝統的なものかもしれないわ!1378年の「チョンピの乱」のときには遠縁のサルヴェストロ・デ・メディチは首謀者の下層階級側の一員としてこの反乱に参加したのよ~
この信条は、息子コジモやその子孫にも受け継がれていきます。
ただ残念ながら後の時代にダメダメ息子が出てくるのでこの伝統は途中で途絶えてしまうんですが…
そして民衆の味方である立ち位置ということは当然、貴族階級との対立を意味しました。
この時代にフィレンツェで勢いのあったアルビツィ家、ストロッツィ家などとは表面的に争うわけではないものの、対立関係にありました。
息子のコジモの代にも、これらの家との関係には苦労します。
抜け目のない人物
常に民衆派のジョヴァンニでしたが、同時に商才豊かなビジネスマンであったため、抜け目のない人物でもありました。
一見、この二つのキャラクターは相反するように思えますが、しかし圧倒的多数を占める民衆の心を掌握するということは絶対的な権力の基盤を築くということでもあります。
銀行家という職業柄、人の心の動きを読み取る能力に長けていたのかもしれませんね。
気前がよく、責任感が強い人物
政治において民衆の利益を第一に考えていたという点、非常に責任感が強いといえます。
また、1417年にフィレンツェでペストが大流行した際には、多額の寄付を行う気前の良さもありました。
子どもたち
ジョヴァンニ・ディ・ビッチにはコジモとロレンツォ、2人の息子がいました。
長男コジモはジョヴァンニの死後、跡を継いでメディチ当主となります。コジモ・イル・ヴェッキオ(Cosimo il Vecchio)と呼ばれる彼もまた、父の教えを守り民衆とともにあることを心がけて街の発展に力を尽くしました。
その功績は非常に偉大で、後に「祖国の父(Padre Patriae)」と呼ばれます。
一方、弟のロレンツォ(ロレンツォ・イル・ヴェッキオ / Lorenzo il Vecchio)からつながる子孫は「ポポラーノ」または「弟脈」と呼ばれ、時折コジモの子孫と対立したりしてフィレンツェの歴史に顔を出しつつ、有名なコジモ1世(Cosimo I de’ Medici / 1519-74)が生まれます。
コジモ1世は父方の祖先がこのロレンツォ・イル・ヴェッキオ、母方の祖先が兄のコジモ・イル・ヴェッキオなので、メディチ家サラブレッドなんですよ!
偉大な兄と違ってあまり目立たないロレンツォですが、田舎を好み、狩りと犬を愛したということでフィレンツェ郊外に点在するメディチ家別荘でよく過ごしていたそうです。
ジョヴァンニ・ディ・ビッチと芸術
ジョヴァンニが、当世の芸術家の中で特にご贔屓だったのはフィリッポ・ブルネレスキ(Filippo Brunelleschi / 1377-1446)。
フィレンツェのシンボル、ドゥオモのクーポラを設計したことで有名な彼です。
ジョヴァンニ・ディ・ビッチは彼の調和のとれた、完ぺきな対称形の美しいプロポーションを持つ作品を愛し、色々な建築物をオーダーしたり、お金を出したりしました。
例えば、捨て子養育院のファサード(1419-25)。初期ルネサンス建築の代表とされる建築です。また、自身が眠るサン・ロレンツォ教会の改築も依頼しました。
それから若きミケロッツォ(Michelozzo / 1396-1472)にはサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂の拡張工事を依頼しました。
ジョヴァンニは息子のコジモやひ孫のロレンツォのように、特に芸術の保護と振興に情熱的だったというわけではありません。
しかし、フィレンツェ市民のために、街をよくするための特に建築物に対してはたくさんお金を出しました。
やっぱり、フィレンツェ市民第一主義という姿勢を貫いていたんですね。