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ミケランジェロの『秘密の小部屋』をのぞいてみよう!孤高の天才が人目を忍んで傑作を構想した場所

フィレンツェと言えば300年ほど町を治めたメディチ家、その主要なメンバーが眠っているのがサン・ロレンツォ聖堂メディチ家礼拝堂です。

メディチ家礼拝堂には『新聖具室』と呼ばれるミケランジェロがプロジェクト(設計&彫刻シリーズ)を担当した部屋があり、『昼と夜』をはじめとする彼の作品がとても有名です。

実はこの部屋に、かつての動乱の時代にミケランジェロ本人が身を隠すために使ったと言われる小部屋があり、そこが一般公開されました。

メディチ家礼拝堂

ミケランジェロの『秘密の小部屋』とは

メディチ家礼拝堂『新聖具室』

『新聖具室』ミケランジェロ・ブォナロッティ, 1526-1534頃, 大理石, メディチ家礼拝堂(フィレンツェ)

こちらの部屋は、現在メディチ家礼拝堂側から入場するようになっていますが、実はサン・ロレンツォ聖堂の一部。15世紀にブルネレスキが設計した旧聖具室(サン・ロレンツォ聖堂からアクセス)を参照して16世紀にミケランジェロがプロジェクトを担当した場所です。

サン・ロレンツォ教会 フィレンツェ サン・ロレンツォ聖堂


ここは空間の設計のみならず、ミケランジェロの大事なパトロンの一人、Lorenzo de’ Mediciロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)とその弟ジュリアーノのお墓や、ロレンツォの子と孫のお墓もあり、それらの多くの部分の彫刻をミケランジェロが作っています。

『ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)と弟ジュリアーノ・デ・メディチのお墓』ミケランジェロ他, 大理石, 1521-1537頃, メディチ家礼拝堂(フィレンツェ)
【左】『ヌムール公ジュリアーノ・デ・メディチの肖像』『昼と夜』ミケランジェロ・ブォナロッティ, 1525-1530頃, 大理石, メディチ家礼拝堂(フィレンツェ)【右】『ウルビーノ公ロレンツォ・デ・メディチの肖像』『暁と夕暮れ』ミケランジェロ・ブォナロッティ, 1531-1533頃, 大理石, メディチ家礼拝堂(フィレンツェ)



そしてこちらの部屋の一角に何やら怪しい階段が…?

隠し扉の下に階段…?

これこそが、かつてミケランジェロが隠れたと言われている小さな部屋への入り口です。

小部屋の存在の背景

この部屋の存在を語るには、まず16世紀のフィレンツェの時代背景をお話しなければいけません。

ロレンツォ・イル・マニフィコの死去とメディチ家のフィレンツェ追放

メディチ家は15世紀前半から実質的な町の支配者として有力な一家でしたが、1492年、イル・マニフィコ(豪華王)と呼ばれたロレンツォの死去と共に、次第にその権力の座が危うくなります。

『ロレンツォ・イル・マニフィコの肖像』アニョロ・ブロンズィーノ, キャンバスに油彩, 1555-1565, ウフィツィ美術館(フィレンツェ)

折しもこの頃、フィレンツェにはサヴォナローラというドメニコ会の修道士が頭角を表し、メディチ家をはじめとする有力な商人階級や貴族などの贅沢な生活を声高に批判していました。一般民衆も次第に彼に感化され、メディチ家もだんだんとアンチが増えていきます。

『ジローラモ・サヴォナローラの肖像』降ら・バルトロメオ, 1498, 板に油彩, サン・マルコ美術館(フィレンツェ)
サン・マルコ美術館【フィレンツェ】


しかも、ロレンツォ亡き後、当主となった長男ピエロは失策に失策を重ね、ついにメディチ家はフィレンツェから追放されてしまいます。

ガイド学校の先生カテリーナ
ガイド学校の先生カテリーナ

ピエロはPiero il fatuoピエロ・イル・ファートゥオ(愚かなピエロ)と呼ばれてるくらい、全くもってダメダメだったのよね~


ピエロを筆頭に、次男のジョヴァンニ(後のローマ教皇レオ10世)、三男ジュリアーノ、甥のジュリオ(後のローマ教皇クレメンス7世)ほか、一族は方々へと亡命します。

そしてフィレンツェは共和国体制へ。

ガイド学校の先生カテリーナ
ガイド学校の先生カテリーナ

正確にはメディチ家のいた時代も体裁上は共和制ではあるんだけど、このタイミングをもって名実ともに共和国体制という感じね


この辺りの人物がメインキャラクターとなったお話が、こちら!時代背景も理解しやすいし、キャラクターがそれぞれ魅力的でとても読みやすいです。

『チェーザレ・ボルジア=破壊の創造者』1~12巻 『チェーザレ・ボルジア~破壊の創造者』15世紀末イタリアが舞台のおすすめ漫画!

メディチ家、フィレンツェに復帰するもまたもや追放

その後、紆余曲折があって、メディチ家はいったんフィレンツェに帰還して政治の実権を握ったりもするのですが、また1527年、フィレンツェから追放されます。

ガイド学校の先生カテリーナ
ガイド学校の先生カテリーナ

実はフィレンツェ=メディチ家というイメージが強いんだけど、常に絶対的な支配者だったわけではなくて、一度目は1433年のコジモ・イル・ヴェッキオ、二度目は1494年のピエロ、そして1527年のアレッサンドロ、と三度にわたって町を追放されているの


この背景としては、長期にわたって領土・権力争いを繰り返していたフランス王と神聖ローマ皇帝の間の戦争(イタリア戦争があります。両者は勝ったり負けたり、イタリアを主戦場として一進一退を繰り返していました。

旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

イタリア的にはいい迷惑よね…


それというのも、イタリアは伝統的に、かつこの時代もフランスのようなまとまった王国というわけではなく、各地に共和国や公国などがひしめき合う場所だったので、一丸となって侵略してきた相手に対抗するということが難しかったんですよね。

そして、ローマ教皇はフランス側と同盟を結び、神聖ローマ皇帝カール5世に対抗していた1527年のこと。

5月6日、世にも無残な「ローマ掠奪りゃくだつ(ローマ劫掠ごうりゃくSacco di Romaサッコ・ディ・ローマとも)」が起こります。皇帝の命を受けた軍隊は、ローマを総攻撃、途中指揮官が死亡したことや皇帝からの賃金の支払いの遅れなどもあったため軍隊の統制が取れなくなって、ローマで掠奪・暴行などありとあらゆる乱暴狼藉がはたらかれたといいます。

『1527年のローマ掠奪』ヨハネス・リンゲルバッハ, 17世紀

このとき、ローマ教皇クレメンス7世となっていたメディチ家出身のジュリオ・デ・メディチ(ロレンツォの甥)は、皇帝軍から逃れるためサンタンジェロ城に逃げ込みます。これにより、フィレンツェでは共和派が蜂起して、メディチ家はまたもや町から追放されてしまいました。

サンタンジェロ城(ローマ)

このとき、ミケランジェロ共和国の組織した軍隊の建築家として反メディチ筆頭の一人という立場だったのです。

そしてその3年後の1530年、皇帝カール5世とメディチ家出身のクレメンス7世が和解。フィレンツェとしてはメディチ家の政権復帰に反発しましたが、皇帝軍がこれを包囲攻撃し、武力でメディチ家の復権を果たしました。

報復を恐れたミケランジェロの隠れ場所

こういった背景があって、ミケランジェロはメディチ家からの報復を恐れており、身の危険を感じていたのです。

ミケランジェロは、サン・ロレンツォ聖堂の参事会員だったGiovan Battista Figiovanniジョヴァン・バッティスタ・フィジョヴァンニと友人でした。彼は、この偉大な芸術家を守るため、聖堂の一部だった新聖具室の一角に匿ったのでしょう。

ガイド学校の先生カテリーナ
ガイド学校の先生カテリーナ

新聖具室そのものを設計したのはミケランジェロ。どこがどうなっているのか、すべて知り尽くしていた、恐らくただ一人の人だったかもね~


しかも、設計を依頼したのはミケランジェロが報復を恐れていた教皇クレメンス7世まさにその人だったというのは、なんとも不思議なめぐりあわせ…!

しかし結局、恐れていたメディチ家からの報復はありませんでした。

それどころか、最も恐れていた教皇クレメンス7世は彼を保護し、自らが依頼したプロジェクトを先に進めるよう指示したのです。

旅好きナナミちゃん
旅好きナナミちゃん

心が広い!!すばらしい!!


ということで身を隠してから約2か月後、ミケランジェロは再び自由の身分を手に入れ、1534年にローマに赴くために町を離れるまで、フィレンツェでの仕事に従事しました。

ちなみにこの最後のときまで、新聖具室の建設には携わっていて、ミケランジェロがこの仕事を離れたときには未完成。後に、ヴァザーリが完成させました。

16世紀の偉大な美術史家、ジョルジョ・ヴァザーリ。トスカーナ大公も絶大な信頼を置いた『総合芸術家』の人生とは?

1975年、小部屋の発見

この小部屋、実は発見されたのはかなり最近で、今から約50年前の1975年11月のこと。

1955年までは木炭置き場として使われていたようですが、その後使われておらず、入り口は家具や物置、その他諸々が山積みになってふさがれていたので、ずっと忘れ去られた存在でした。

当時のメディチ家礼拝堂の館長だったPaolo Dal Poggettoパオロ・ダル・ポッジェット氏が礼拝堂の新たな出口を作るためのスペースの下見のため、この部分の清掃を修復士Sabino Giovannoniサビーノ・ジョヴァンノーニ氏に依頼しました。

修復士が見たものは、新聖具室の後陣の下の細い通路(長さ10m×幅3m×天井2.5m)の壁に、何やらデッサンのようなもの。2層のしっくいの下に木炭で描かれた様々なサイズのデッサン、多くはまとまりがなく、落書きのように重ねて描かれているものもあったそうです。

報告を受けた館長は壁画を調べ、ミケランジェロの手になるものであると考え、仮説を立てました。

パオロ・ダル・ポッジェット
パオロ・ダル・ポッジェット

ミケランジェロはあの動乱の際、この小さな空間に逃げ込んだのではないか

パオロ・ダル・ポッジェット
パオロ・ダル・ポッジェット

反メディチ派の筆頭軍事建築家として働いていたミケランジェロへの報復を恐れ、サン・ロレンツォ聖堂の参事会員フィジョヴァンニがここへ彼を隠したのでは


館長がそのように考えた理由は、そこに残されていたデッサンには、まさにその上の新聖具室にあるジュリアーノ・デ・メディチの墓碑モニュメントの草案ともいえるスケッチや、ラオコーン(ミケランジェロの『トンド・ドーニ』の中にその形が採用されている)の頭部や彼の他の彫刻・絵画作品に見られる造形のデッサンと思われるものが多数含まれていたからです。

『ラオコーン』のような姿形が採用されているのはこちらの作品!

ミケランジェロ/トンド・ドーニ(聖家族) ミケランジェロの唯一の板絵「トンド・ドーニ(聖家族)」巨匠こだわりの逸品!
ガイド学校の先生カテリーナ
ガイド学校の先生カテリーナ

ちなみに…ミケランジェロを専門に研究する学者の中には、「ここがミケランジェロの隠れ部屋だった」という話を否定する人もいるわ。理由としては、いくつかのデッサンがミケランジェロにしては未熟すぎるためで、隠れ部屋ではなく、新聖具室の建設途中の作業準備部屋で弟子たちも描き込んでいるものではないか、としているの

50年に渡る修復作業の後、一般公開へ

そういうわけで、この世紀の一大発見は丁寧な修復作業へと進みました。

前述の通り、この空間は長さ10m×幅3m×天井2.5とわずかなスペースで、建物内部にあり窓も小さめ。おまけに作品(=壁)を長い時間光にさらすわけにはいかないので、その作業は非常に困難を極めたことと思われます。

事実、現館長Paola D’Agostino氏は「長く忍耐を必要とする作業だった。様々な分野のプロフェッショナルの協力と美術館の係員に感謝したい。」と述べています。

そしていよいよ2023年11月、満を持して修復の完了した小部屋が一般公開されました!

ミケランジェロの『秘密の小部屋』の様子

画面いっぱいにデッサンがずらり

さて、新聖具室の片隅の入口から10段ほどの階段を降りると、この小部屋に出ます。

広めのワンルームほどの空間で、壁一面にデッサンが隅々まで描き込まれています。天井もそれほど高くないので、背が高めの男性なら易々と一番高い部分でも手が触れるでしょうし、むしろほぼ身長ぐらいの感覚かもしれません。

こちらには井戸があります。この上の空間には、かつて手を洗うための台が設けられていました。

天才の頭の中

デッサンは大きなものから小さなものまで様々。そして、見覚えのある作品に活かされたのであろうものも!

それぞれ、最終的にどの作品になったのか(もしくはオリジナルが何の作品か)、想像がつきますか?

まず、これは『ラオコーン』(ヴァチカン美術館所蔵)の表情を描いたものっぽいですね!


これは有名なシスティーナ礼拝堂(ヴァチカン美術館)の天井画にある、『創世記』の一場面。

左右反転していますが、神の言いつけに背いて知恵の実を食べてしまった旧約聖書のイブのポーズによく似ています。


こちらはすぐ上の新聖具室にある、ヌムール公ジュリオ・デ・メディチの墓碑モニュメントに使われた像の脚の部分のデッサンですね。

そのほか、全体を通じて、脚(特に膝から下)のデッサンが多いなという印象でした。ミケランジェロの中で、この時期はそこに関する興味が高まっていたのでしょうか?


こちらの足の部分は、

『最後の審判』(システィーナ礼拝堂/ヴァチカン美術館)の審判を下すキリストの足元に採用されていそうです。

中には、天井にまで到達するものも。

実は天井にはミケランジェロのものと思われる指紋のあとも残っているようですが、残念ながら引きずられたような形となってしまっていて、照合できるような状態ではないそうです。

思いついたものを描きとったラフスケッチ、線描から、濃淡のグラデーションをつけてイメージを膨らませたものなど、デッサンのタイプも様々。これらは木を焼いて炭にしたものや、土をワックスに混ぜたものなどで描かれているそうです。

ここに隠れている間のミケランジェロには、もちろん生き延びることに精いっぱいで、勉強するための教材とかはなかったはず。ということは、これらのデッサンを、彼は全く何も参照せずに描いたということですよね…!

Azu
Azu

人体の構造がすべて頭に入っているからこそ、できる技…さすが巨匠!!!

中には、ヴァチカンに赴いた際に見た記憶を頼りに描いたであろうものもあったりしますし、実際のものとは左右反転していたりポーズがわずかに違ったりもしています。

でも、何も見ないで頭の中にあるものをこの再現性の高さで描き出すことができる、…やはり天才ですね。

意外に近かった外界との距離

この空間には70cm四方の窓が二つあるのですが、ここから少し外が見えるようになっています。

実はこの空間、地面に対して30cmほど上に位置するだけなので、この窓のすぐ外側には通行する人が見えているんです!

ミケランジェロがここに潜んでいた時は窓の扉を閉めていたかもしれませんが、それでも、身を隠しているその相手のテリトリーど真ん中、しかも相手の家と目と鼻の先に隠れ続けるとは…心臓に悪そうですね!!

ミケランジェロの『秘密の小部屋』入場方法

入場条件

ということでこの貴重な『ミケランジェロの秘密の小部屋』が2023年11月15日から一般公開されたわけですが、諸条件がありアクセス難易度はちょっと高めです。

  • 予約必須、入場は指定時間のみ
    月曜日・金曜日 15.00/16.30/18.00
    水曜日・土曜日 9.00/10.30/12.00/13.30/15.00/16.30/18.00
    木曜日 9.00/10.30/12.00/13.30/15.00
    予約はTEL tel. +39 055 294883(イタリア語/英語/スペイン語)またはオンライン予約
  • 一度に入場できる最大の人数は4名(一週間に最大100名)、かつ鑑賞時間は15分間
  • 入場は狭い階段のみなので安全上の理由で、歩行に問題がある方と10歳以下は入場不可
    (閉所恐怖症の方や心疾患のある方、妊娠中の方も避けたほうがベター)
  • 入場料は小部屋20ユーロ/名に加え、予約料3ユーロ/名、メディチ家礼拝堂の入場料9ユーロ、合計32ユーロが必要
  • 入場時、身分証明書の提示が必要
  • 大きな荷物、リュック、傘等は入場前に預ける

鑑賞時間や入場人数が厳しく制限されているのは、作品(デッサン)がLED光にさらされる時間を一定以下に押さえなければいけないためです。

そしてこの制限人数のためあっという間に予約が売り切れてしまうので、公開当初は予約受付開始後5日の時点で最短の受付可能日は3か月後です、という状態でした。それから数年経った今でも、2か月くらい先まではなかなか予約が取れません。超有名マエストロの秘密の小部屋、しかも史上初公開とあって予約が殺到しているんですね…!

フィレンツェの国立美術館(ウフィツィ美術館、アカデミア美術館ほか) オンライン予約方法

▼『秘密の小部屋』をバーチャルツアーで見る

この記事の著者

フィレンツェガイド

Azu

プロフィール

イタリア政府公認観光ガイド。 得意ジャンルは美術、街歩き、ワイン。好きな芸術家は、ブロンズィーノとドナテッロ。有名作品もいいけど、隠れ注目ポイントや裏話が大好き!普通のガイドブックじゃ見つからない、”ここだけの話”をお伝えします♪