フィレンツェNo.1美女?のヴィーナスと並んで、街のシンボルともいえるダヴィデくん。
連日、彼を一目見ようと世界中からたくさんの人がその家につめかける、言わば☆スーパーアイドル☆です。
そんなダヴィデくんの魅力と秘密に迫るため、まずはダヴィデくんの基本プロフィールをご紹介します!
目次
ダヴィデ像のオリジナルはどこ?
フィレンツェには3人のダヴィデくんがいるのをご存知ですか?
いや、正確にはもっとたくさんダヴィデと名の付く人(とか作品)はいますが、この見覚えのあるダヴィデくん、大きさも形もそっくりなのが3体あるんです。
では、オリジナルはどのダヴィデくんでしょう?
それでは、ダヴィデくんのプロフィールから見てみましょう!
ダヴィデ像のプロフィール
作者:ミケランジェロ・ブォナロッティ
ダヴィデくんの生みの親は、ミケランジェロ・ブオナッロティ(Michelangelo Buonarroti / 1475-1564)。
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロと並んで盛期ルネサンスの三大巨匠のひとりと呼ばれます。
フィレンツェの南東90kmほどに位置するカプレーゼという小さな村の出身です。
ミケランジェロの生まれ故郷カプレーゼに行ってきました!とはいっても、彼は生後1か月程度しかそこにおらず、すぐにフィレンツェにやってきたので、フィレンツェ人と言って問題ないでしょう。
ミケランジェロは自分でも「フィレンツェ出身のミケランジェロ」と名乗っていたからね!ちなみに、絵画、建築、彫刻とすべての芸術を手掛けたんだが、彫刻こそが至高の芸術と考えていたし、自分は彫刻家である、と公言していたんだ!
そんなミケランジェロがその実力を認められ、26歳の時にオーダーされたのがこちらのダヴィデくん。
その大きさは実に…
大きさ:5m超え!!
ダヴィデくんは実物を見るとその大きさと迫力にとても驚かされるのですが、身長は4m超、台座部分も入れると5mを超えます!
ちなみに重さは約5トン。
この巨体を掘り出すためには、必要とされる大理石はさらにそれよりも大きいもの。
この大理石は、大理石の産地として有名なトスカーナの海沿いにある、カッラーラという町から運ばれてきました。
ミケランジェロはここの大理石をことのほかお気に入りで、ローマに移ってからもずっとここのをお取り寄せして使っていたくらいなんだ!
でも実は、この大理石はミケランジェロが選んだものではありませんでした。
最初に挑戦したのは、アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョという芸術家。1400年代の後半、この大きな大理石を選び作業に入ったのですが、そのあまりの扱いにくさに放り出してしまいました。
続いて約10年後、今度はアントニオ・ロッセリーノという芸術家が挑みますがやはり無理だー!(´・ω・`)と断念。
巨匠ミケランジェロが生まれたのはちょうどこの頃!!
そのまま放置されてしまった巨大な大理石。
時を経て1501年、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオモ)に大きな影響力を持っていた羊毛業組合と、そこが握っていた大聖堂造営局(ドゥオモとその関連施設の工事や美術品の注文運営をする機関)が、ミケランジェロにこの大理石から彫刻を彫り出すよう依頼します。
この時、ミケランジェロは26歳。若い芸術家は闘争心をメラメラと燃やし、この依頼を引き受けます。
ほんとは人が手をつけた大理石を使うのって趣味じゃないけど…これはデカい仕事だ!!
事実、彼が使いかけの大理石を彫ったのは後にも先にもこの作品だけだったといいます。
若きミケランジェロは、やりかけの大理石から見事にこの完成されたダヴィデ像を彫り出しました。仕上げるのにかかった時間は、足かけ4年(1501~1504)。
しかしダヴィデくんを間近で見ると、実はあちこちバランスが悪いことに気づきます。
特に、体の割に大きすぎる手と頭。
ミケランジェロって天才だって聞いたけど、サイズ間違えちゃったりすることもあるんだね!
Nooooooo!!!我らがMikeは筋肉一つ間違えたことはない!!天才Mikeはもともと設置される予定だった場所も計算に入れて作品を彫りあげたんだよ!!OK?
そのお話は後半の秘密解明編で!
フィレンツェNo.1イケメン!?ミケランジェロ作ダヴィデ像【後編】魅力と秘密を徹底解説!ダヴィデ像がつくられた目的
『ダヴィデ』と『ゴリアテ』
ダヴィデくんとはもともと旧約聖書に出て来る人物。
『ダヴィデとゴリアテ』あらすじを解説!勇敢な少年は巨人を倒し、英雄となった。~ダヴィデくんのお話あらすじ要約~
古代イスラエルの国、ベツレヘムにいた羊飼いの青年ダヴィデくん。
あるとき敵のペリシテ人がベツレヘムの街に戦いの一騎打ちを申し込んできました。
その挑戦者はゴリアテという約3m(!)の巨体と怪力を誇る大男でした。
これに立候補したのがダヴィデくん。普通の青年なので多分身長170cmとかぐらいでしょう。
しかも動きにくいからと鎧を脱ぎ捨て、石つぶての入った袋と投石器(遠心力を使って石を投げる道具)だけという心配になるくらいの軽装備で立ち向かいます!
誰もがゴリアテの勝利を確信していたこの勝負、みごとゴリアテを倒し街を救ったのでした。
この、「英雄が敵を倒した」というダヴィデくんのエピソードは昔からとても好まれ、芸術作品のテーマとして採用されてきました。
この時は、ちょうどフィレンツェ市民が敵を倒し共和制を勝ち取った直後の時代。まさにそのシンボルとして最適な題材だったんだ!
この辺りの時代背景についてはこちら
世紀末のフィレンツェはサヴォナローラの支配下に…ボッティチェリにも影響!ダヴィデ像の引っ越し
ミケランジェロがダヴィデ像を製作していたのは、大聖堂造営局の作業場(現ドゥオモ付属博物館)。完成後、そこから、共和制(=共和国政府)のシンボルである、ヴェッキオ宮殿前に移されます。
しかし、なんせ500年前のことなんで、じゃ、トラックで運びまーすってわけにもいかないので、人手を使って数日かけて、ようやく目的地へ運ばれました。こんな感じ。
ようやく国のシンボルとしての位置に収まったダヴィデくんですが、そこは屋外だったもので、色々な被害にあいます。
記録に残っているものでは1527年4月26日。
共和国政府に対する市民の暴動が起こり、これに対抗するためヴェッキオ宮殿にこもった共和国側が窓から応戦するために投げた何かがダヴィデくんの左腕を直撃!
それは3つに砕け(たぶんそれよりもっと小さい塊にも)、地面に落ちてしまいました。
この時ジョルジョ・ヴァザーリとその友人がこっそりかけらを拾い集め、保管していて、後に修復したのです。
16世紀の偉大な美術史家、ジョルジョ・ヴァザーリ。トスカーナ大公も絶大な信頼を置いた『総合芸術家』の人生とは?グッジョブ、ヴァザーリ!!
そんなわけで長らく市のシンボルとして市庁舎であるヴェッキオ宮殿前にどーんと構えていたダヴィデくんですが、19世紀後半にいよいよお引越しが決まります。
行き先は、アカデミア美術館。
この中にダヴィデくんのためのスペースとして『トリブーナ(ある目的のために限定された建築空間)』が建設されることが決まりました!
設計を担当したのは、フィレンツェのドゥオモの現ファサードを設計した建築家、エミリオ・デ・ファブリス(Emilio de Fabris / 1807-1883)。
彼は、ダヴィデくんが一番美しく見えるよう、スペースや採光を計算し、トリブーナを設計。
ダヴィデくんのためのお家(とお部屋)が完成しました。
手前には、同じくミケランジェロの手による未完成の5体の彫刻が飾られ、巨匠の世界観を味わいつつ堂々たる完成品のダヴィデくんに至る設計になっています。
そんなわけで、冒頭のクイズ、オリジナルのダヴィデくんはどれ?の正解は2番でした!!
アカデミア美術館には、ダヴィデくんを一目見たい!!と、連日多くの人が詰めかけています。
特にハイシーズンは予約なしは1時間待ちなどの長蛇の列になりますので、なるべく予約して見に行きましょう!