「マグダラのマリア(伊:Maria Maddalena)」とは新約聖書に登場する人物。
美術作品の題材として人気のある人物で、色々な作品に登場します。
ヴェネツィア派の巨匠、ティツィアーノも彼女を題材にした作品をいくつか残していますが、長生きの彼らしく、時期によって少しずつ表現が変わっているのが面白いところ。
代表的な3つの作品の見どころをご紹介します!
マグダラのマリアって、どんな人?目次
ティツィアーノ・ヴェチェッリオはヴェネツィア派の画家
作者のティツィアーノ・ヴェチェッリオはヴェネツィア生まれの画家。
1400年代終わり~1500年代終わりにかけ、約90歳という長寿を生き、しかも常にパトロンに恵まれ続けるという幸運も持ち合わせた画家でした。
なので、今でもたくさんの作品が残されています。
彼の作品と特定されているもの、また恐らく彼のものと推測されているものを合わせると300近い数が確認されているのよ
生まれたヴェネツィアで人生の多くを過ごし、後半は神聖ローマ皇帝カール5世に呼ばれてドイツへ、それからその子スペイン王フェリペ2世のもとで過ごしました。
彼の時代の絵画界は、色彩のニュアンスを重視するヴェネツィア派と素描の正確さを重視するフィレンツェ派が主な二つの潮流でした。
<ヴェネツィア派>
<フィレンツェ派>
ティツィアーノはまさしく「ヴェネツィア派」の中心的存在。
その作品の見どころは微妙な陰影のニュアンスも色で描き分ける表現力にあります。
例えばこの「フローラ」は、明るい部分と影の部分、髪の光り方などの表現が見事!
ティツィアーノの「フローラ」は、どうしてこんなに魅力的なのか。この他の代表作には、「ウルビーノのヴィーナス」「聖母被昇天」などがあります。
題材「マグダラのマリア」のエピソード
さて、今回ご紹介する「マグダラのマリア」という作品について、まずはその題材となった女性のお話。
彼女はもともと娼婦であった罪深い女性だけど、イエスに出会って改悛しその後イエスに従って過ごし、最終的には聖女になった女性、と一般的には解釈されています。
一般的なマグダラのマリアにまつわるエピソードはこちら>>
マグダラのマリアって、どんな人?聖書などに出て来るエピソードから、美術作品にマグダラのマリアが登場するときは、
- 髪の長い(ハンパなく長い)女性
- 香油壺を持っている、または近くにある
- イエスの足元にいる
などの状況で表現されることが多いです。
カトリックの有名な「聖人」たち。そのエピソード、アトリビュートを知って美術を楽しもう!ティツィアーノが描いた3枚の「マグダラのマリア」
ティツィアーノは「マグダラのマリア」を題材とする作品をいくつか残していますが、そのうち最も有名な3枚がこちら。
後半の2枚はほとんど間違い探しのようにそっくりです( ゚Д゚)!!
タイトルはどれも「改悛するマグダラのマリア」、構図はすべて同じで、天を仰ぎ見て目に涙を浮かべ、自分の過去について反省し懺悔している場面を描いたものです。
初期の「マグダラのマリア」
一番最初に描いたとされるパラティーナ美術館の「マグダラのマリア」は、一番官能的な表現ですね!
これが一番キレイでーす
やっぱりぱっと見で一番気になるのは、長い髪の毛で隠されたふくよかな体…と見せかけて、
見えてる!!( ゚Д゚)
一番隠さないといけないとこ、見えてる!!(;´Д`)
と突っ込みたくなる、あからさまに描かれた裸の胸。
豊かな金髪の表現も、それはそれは豊かで美しいのですが、やはりそこに目をとられてしまいます。(^^;;
あえて見せているとしか思えませんもんね…
このように、テーマが聖女という存在でありながら、表現が非常に世俗的なことから、確実に私的な(つまり教会からではない)注文で描かれたものとされています。
やっぱり日常にエロスは必要でーす
「フローラ」といい、彼の作品の女性は本当にふっくらと美しく、セクシーに描かれています。
ちなみに彼女が「マグダラのマリア」だと分かるのは、その長い髪の毛と、脇に描かれた香油壺から。
これは、彼女がイエスの足を自らの涙で濡らし、その髪で拭ったという聖書のエピソードから来ています。
ちなみに脇の香油壺には「TITAN」のサインが入っています。
後半の「マグダラのマリア」
さて一方、後半の2枚についてはこの官能的な表現はとても少なくなっています。
そもそも服を着ていますし、心なしか、マリアの顔もちょっと厳粛なような。
この作風の変化の一番大きな原因は、トレント公会議(※)であるとされています。
この会議以降は、裸体など、「はしたないこと」を連想させる美術表現は禁止されました。
その結果、マリア本人の表現が初期のものに比べより清楚になっています。
そして、変わったところがもう一点。
初期の作品にはなかった、「本」と「髑髏」が登場しています。
「本」は聖書、「髑髏」は改悛のシンボル。見ている人自身にも自分の過ちを振り返らせるために置かれているの
これも、美術作品をその中に描かれている存在が祈りを捧げるべき信仰の対象であると位置づけた、トレント公会議の結果を反映したものです。
どの作品がいいかは個人の好みですが、私は初期の作品がいちばんティツィアーノらしさが出ているような気がします。笑
この時は、贖宥(=免罪符。罪を赦してもらうため、信者が購入する)などの腐敗したカトリック世界をドイツのルターなどが糾弾したことによって始まった宗教改革(この結果、プロテスタントが生まれた)に対してカトリックの教義が再確認された。
これ以降のカトリックの動きを「対抗宗教改革」と呼ぶ。
この時、美術について確認された主な内容は
- 裸体(=無作法な、はしたないもの)は隠すことで「正しく」なる→それ以前の作品にも布が描き加えられたりした 例)ミケランジェロ作システィーナ礼拝堂
- 「美術」は文字の読めない人にも神と聖人(特に聖母)の栄光を伝える役割に戻る→何の場面かはっきりわかるよう、一つの作品に描かれる人物の数が減る
というようなものだった。
しかし問題とされた贖宥についてはこの公会議においては討議されなかったという。
フィレンツェにたくさんのティツィアーノ作品があるワケ
実は、フィレンツェにはヴェネツィア・マドリードに次いで、ティツィアーノの作品が多く残されています。
でも、ティツィアーノがフィレンツェに住んでいたことはありません(旅行ぐらいはしたかもしれませんが、特にそういう記録はありません)。また、ティツィアーノのパトロンがフィレンツェにいたわけでもありません。
ヴェネツィアは作者の出身地だし、マドリードはスペイン王フェリペ2世がパトロンだったから…だけどじゃあどうしてフィレンツェに?
そう、不思議でしょう。
これは歴史のイタズラというか、すごい偶然が重なった結果です。
ヴィットリア・デッラ・ローヴェレ(Vittoria della Rovere)の結婚
フィレンツェにティツィアーノの作品を持ってきたのは、ヴィットリア・デッラ・ローヴェレという女性。
この女性は、メディチ家のフェルディナンド2世(Ferdinando II de’ Medici)というトスカーナ大公と結婚した人物です。
この時代、このように裕福な家の子同士が結婚する場合、女性側はお金・領地・美術作品などの婚資を持参するのが普通でした。
しかし彼女の場合は、若くして両親ともを亡くしてしまい、それによって本来であれば彼女が相続するはずだった領地も相続を認められませんでした。
当時もっとも権力の強いローマ教皇に逆らえるほどの力を持った後ろ盾の人が、彼女にはいなかったの…
それで彼女は相続を認められた財産、つまりたくさんの美術コレクションを持って1631年、フィレンツェにお嫁入りしたというわけです。
彼女はウルビーノというマルケ州の地方からフィレンツェにやってきました。
ちなみに僕はここの出身だよ~!
彼女が持参したコレクションの中には、現在ウフィツィ美術館で見られるこの作品も含まれていました。
だからこの作品は「ウルビーノのヴィーナス」と呼ばれるんです。
ほぉ~、なるほど~。…ん…??でもやっぱりヴェネツィアともスペインとも関係がないよね…?
そう、ではなぜウルビーノにティツィアーノの作品がそんなにたくさんあったのでしょうか?
ヴェネツィア軍総督フランチェスコ・マリア1世・デッラ・ローヴェレ(Francesco Maria della Rovere)
それは、ティツィアーノのパトロンのひとり、フランチェスコ・マリア1世・デッラ・ローヴェレがヴェネツィア軍総督を務めていたから。
この人は、先ほど出てきたヴィットリアのひいひいおじいちゃん(高祖父)。
じゃあ、この人がたまたまヴェネツィアに赴任してて、たまたまティツィアーノのパトロンをやってて、たまたまその子孫がフィレンツェにお嫁入したから、こんなにいっぱいあるってことか!
ね、すごい偶然が重なった結果でしょ!歴史ってわからないものですねぇ…。
今回ご紹介したティツィアーノの「マグダラのマリア」、一番初期の作品はフィレンツェのパラティーナ美術館(ピッティ宮殿内)で見ることができます。