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サン・ミニアート・アル・モンテ教会の伝説、西暦250年の初殉教者のお話。

サン・ミニアート・アル・モンテ教会は、フィレンツェの街を見下ろす高台にある教会。

有名な観光スポット、ミケランジェロ広場のさらに山手、上の方にあります。

サン・ミニアート・アル・モンテ教会

現在の教会が建設されたのは11世紀初頭ですが、その起源は実はさらに数百年前にさかのぼることができます。

ここに教会が建てられる理由となった、一人の聖人がいます。

サン・ミニアートの伝説

異邦人ミニアートさん、フィレンツェへ

サン・ミニアート(San Miniato/聖ミニアート)は、西暦200年代に生きた人で、ヨーロッパより東の方の出身、恐らくギリシア人の商人またはアルメニア(トルコの東隣)の王子で、巡礼のためローマに来ていたとされています。その他、ローマ帝国の兵士だったとする説もあります。

西暦250年、フィレンツェにやってきて隠遁生活を始めました。

「サン」とは「聖なる」を意味し普通は死後につけられるものなので、当時はただの”ミニアートさん”です。

フィレンツェ初の殉教者

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ミニアートさんは、左手にシュロの葉っぱを持っています。

Azu
Azu

シュロの葉っぱは殉教したひとの証です

まだ彼の時代はキリスト教は認められておらず、迫害されていたため、ついに彼は異教の神を信じた罪で処刑されることになります。

処刑場所は現在のサンタ・クローチェ教会の近くにあったとされる円形競技場(anfiteatro)で、首を切り落とされました。

・・・が!!!

なんと彼は立ち上がり、切り落された首を手に抱えて歩き出したと言います( ゚Д゚)!

向かった先は、アルノ川を超え、当時は鬱蒼とした森であったであろう南の山の方角。

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ちょうど現在、フィレンツェが一望できる人気の観光スポットとなっているミケランジェロ広場の少し後ろあたりに、自分が暮らすための庵を持っており、そこまで帰った、と…。

これが西暦250年の10月25日のこと。

そしてサン・ミニアート・アル・モンテ教会へ

後日、彼が帰り着いた場所に聖人のお墓と小さな礼拝堂が作られ、やがてそれは大聖堂へと建て替えられ、現在サン・ミニアート・アル・モンテ教会(聖堂)と呼ばれるものになりました。

サン・ミニアート・アル・モンテ教会

ここはフィレンツェの中でもかなり高台に位置し、美しいフィレンツェの街が一望できます。

街なかのワイワイした雑踏とはガラリと雰囲気が変わり、ゆったりとした気持ちで散策することができます。

ロマネスク様式の美しい教会。外観は2時代に分けて建てられたので、様式の変化が面白いです。
ロマネスク様式の美しい教会。外観は2時代に分けて建てられたので、様式の変化が面白いです。

サン・ミニアート・アル・モンテ教会内部
典型的なローマ時代の教会。細部まで丁寧に装飾されています。

フィレンツェの景色
サン・ミニアート・アル・モンテ教会よりフィレンツェを望む

教会の前後にはフィレンツェにゆかりのある著名人が眠る墓地もあり、その墓碑が日本の墓地とまったくイメージが違ってひとつひとつを観察するのもまた面白いです。

本の形をしていたり、恋人のような男女二人のほぼ等身大の像が飾られていたり…

鐘楼
ミケランジェロが砲台として利用した鐘楼

 サン・ミニアート・アル・モンテ教会にある、墓碑とは思えないアートな彫刻作品
サン・ミニアート・アル・モンテ教会にある、墓碑とは思えないアートな彫刻作品

まるで恋人同士を再現したかのような墓碑
まるで恋人同士を再現したかのような墓碑。実はこの二人、カップルではありません

↓フィレンツェ市の投稿より。フィレンツェ市民でもサン・ミニアートとその伝説を知っている人はそう多くはないので、私知ってるよ~って自慢できるかも!?

カトリックの「聖人」

聖人ってダレ??

「聖人」は読んで字のごとし、「聖なる人」を指す言葉で、イタリア語では「サント(Santo)」と言います。

Azu
Azu

男性なら「Santo(複:Santi)」、女性なら「Santa(複:Sante)」になります。後に来る言葉によって「San」のみのこともあります

なので、イタリア語で「サン~」と名前のついているものは、大体「聖なる~」の意味なんだなーとざっくり考えればそんなに間違ってはいません。

さて、どういう人が「聖人」になるのか。

聖人に対する崇敬を行う教派では、教会によって公式に認定(列聖されなければ聖人と認められない。一般に、聖人として認めるための調査は本人の死後に長い時間をかけて行われ、早くても死後数十年、場合によっては死後数百年にも及ぶ厳しい審査を経てようやく認められる(例:ジャンヌ・ダルクが聖人として認められたのは本人の死から489年後であった)。しかもカトリック教会の場合、列聖の前段階として、福者と認められなければならない(列福されることが必要)

-Wikipedia「聖人」より引用

実は、聖人・福者に認定されるためにはいくつかの条件があります(カトリックの場合)。

  • 生前に聖人・福者になりうる行動(カトリック教徒として模範的な行動)をしていた
  • 既に亡くなっていて(当然、自殺はダメです)いること
  • 死後、奇跡を少なくとも2回以上起こしていること

などなど、そしてこれらの条件をクリアした人をローマ教皇庁に申請すると、教皇庁が綿密な調査をして認められれば列福・列聖されるという流れです。

でも、これは現代のお話。

実はこのように条件が規定されたのはごく最近のことで、中世以前は司教の好みとか、みんなに人気があったからとか、そんな理由で列聖・列福されていた人もいました。

それから、古い時代の聖人は「殉教者であった」という理由で認定されている人がほとんどです。

Azu
Azu

この時代にどんな人だったかなどの詳しい資料は残っていませんからね…

カトリックの有名な「聖人」たち。そのエピソード、アトリビュートを知って美術を楽しもう!

ちなみに同じキリスト教でもこの聖人制度が採用されているのはカトリック教会のほか正教会や東方教会など一部の教派で、全部の教派ではありません。

Azu
Azu

特にプロテスタントでは基本的に聖人に対する崇敬を行いません

現代のイタリア人は洗礼(生後、キリスト教に入信するための儀式)こそ受けているものの、毎週教会に通っているという人は特に都市部の若年層ではかなり珍しくなっています。

とはいえ、宗教はと聞かれると「カトリック」と答える人が大半で、小さい頃からその文化に触れて育っているため、聖書のあらすじと有名な聖人の名前やエピソードはわかるという人が多いです。

キリスト教の歴史初期

今でこそ世界三大宗教の一つとして数えられ、多くの国で国教として定められているキリスト教ですが、何事にも物ごとには始まりというものがあります。

イスラエルの地で生まれたイエスという人が、数々の奇跡を起こし神の子と称えられ、その言動を記した聖書に基づく教えが広まったのがキリスト教なわけですが、彼が生まれた年をスタートとして現在の西暦をカウントすることにしたので、大体2000年ちょっと前の人です。

ガイド学校の先生カテリーナ
ガイド学校の先生カテリーナ

現在では研究の結果、イエスが生まれたのは紀元前4年~9年頃とされているのよ

教えを説き始めた頃は、信者もいましたが反対する者も多く、最終的にはイエス本人も十字架に架けられ処刑されてしまいます。

聖書がわかると美術が面白い!主人公「イエス・キリスト」の生涯。

その後、十二使徒をはじめ様々な人によってその教えは徐々に広まっていくのですが、市民権を得るまでにはやっぱり時間がかかります。

最終的にキリスト教をひとつの宗教として信じてもよい、とされたのが313年のこと。
さらに国教(当時はローマ帝国)と認定されたのが382年のことでした。

それまでの期間は、異教とされ、その信者たちは迫害されていたのです。ちょうど日本でも江戸時代にキリスト教徒が弾圧され、踏み絵などを強いられていたのと同じ感じですね。

そしてキリスト教が広まるにつれて聖人の数も増え、今は1万人以上いるそうですが、厳密には数え上げることが不可能だそうで、正確な数字は不明です。

有名な聖人にはその名を冠した教会や宗教関連施設が捧げられています。

サン・ロレンツォ教会→聖ロレンツォ(ラウレンティウス)、サン・ジョバンニ洗礼堂→(聖)洗礼者ヨハネ、サンタントニオ大聖堂→聖アントニウス大聖堂、…など。

内部にはその聖人に関わる美術作品があることが多いので、その表現をみてどんな人だったのか考えるのも面白いですよ。