3月25日は、カトリックの国にとってとても大切な「受胎告知」の日。
その陰に隠れがちで、フィレンツェ人にすらほとんど知られていないんですが、実は旧暦での新年の始まりの日でもあるんです!
目次
旧暦「ユリウス暦」の時代
現在、一般的に使われているカレンダーは、「グレゴリオ暦」と呼ばれるもの。
日本や中国など、アジアの各国にも旧暦があるように、ヨーロッパ世界にも「ユリウス暦」という旧カレンダーがあったんです。
これらがいつ頃まで使われていたのかというと。
ガイド学校の先生カテリーナ
そう、ヨーロッパという地域にはたくさんの強国がひしめいていて、それぞれ影響しあいつつも独自の文化を歩んできているのです。
統一前のイタリア
中でもイタリアは、現在の領土が王国として統一されたのは1861年とわりと最近のお話(いまはイタリア共和国)。ちょうど日本で江戸時代が終わったのが1868年、ほぼ同じころのお話ですね。
それ以前はどうなっていたかというと、例えば15世紀にはミラノ公国、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ナポリ王国、シチリア王国、サルデーニャ王国、そしてローマ教皇領…という風に、それぞれに君主がいて統治しているという群雄割拠の状態。
ここフィレンツェは、15世紀以降、長らく主にメディチ家が支配していました(16世紀半ばにコジモ1世が「大公」の地位を得たことによりトスカーナ大公国に)。
1737年に最後の大公ジャン・ガストーネが、1743年にフィレンツェ・メディチ家最後の女性アンナ・マリア・ルイーザが亡くなり、その支配権はオーストリア・ロレーナ家のフランツ・シュテファンの手に。
メディチ家「最後の女性」フィレンツェの芸術を守ったアンナ・マリア・ルイーザ。
フランツ・シュテファンは他のヨーロッパ諸国の近代化に大きく後れを取っていたフィレンツェを改革すべく、1750年、カレンダーの変更を決定しました。
ガイド学校の先生カテリーナ
それ以前に使われていたカレンダーでは受胎告知の日である3月25日を新年のスタート、つまり今でいうお正月としていました。
「グレゴリオ暦」ができたきっかけ
昔のヨーロッパでは3月21日を「春分の日」と定め、これを基準にパスクア(Pasqua / 復活祭)など、カトリックの重要な祭事の日取りを決めていました。
ですが、現代では一般的になっているように、天体の動きを基にきちんと計算すると、「春分の日」は毎年少しずつ変わります。毎年同じ日を基準に色々なことを決めていた結果、カレンダー上の日付と実際の季節はどんどんずれていくことに。
1582年のこと。当時のローマ教皇グレゴリウス13世は、普通は春先に来るはずのパスクアが、その年は夏になることに気づいてしまいました!!
ガイド学校の先生カテリーナ
教皇が気づいたとき、すでに本来の「春分の日」は10日前に過ぎてしまっていました。そこで教皇はコペルニクスが残した天体計算に基づいて専門家たちに再計算させ、新しいカレンダーを作成。
これが現在の「グレゴリオ暦」です。
ローマ教皇の号令によってローマはもちろん、フランス、スペイン、ポルトガルなどカトリックの国々は次々とカレンダーを変更しましたが、なぜかフィレンツェでは旧暦にこだわり。
ガイド学校の先生カテリーナ
3月25日は「受胎告知」の日。絵画に描かれるシンボルとその意味は?
最終的に1750年のフランツ・シュテファンによる変革まで旧暦を使い続けました。
ちなみに日本にグレゴリオ暦が導入されたのは1873年のこと。わずかに100年ほどしか変わりません…
「フィレンツェ旧正月」の歴史行列が街中を練り歩く
フィレンツェではこの「フィレンツェ旧正月」を記念する行事を2000年より始めました。
3月25日、共和国広場のやや南、グエルフィ党広場(piazzetta di Parte Guelfa)を出発した歴史衣装を来た行列は約2時間ほどかけて街なかを進み、サンティッシマ・アンヌンツィアータ広場まで行進します。そして教会の中へ。
シニョーリア広場にあるランツィの回廊には、このカレンダーの変更が1750年に行われたことを記録する石碑が掲げられています。